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Bonne année 2021

2021年、あけましておめでとうございます。

2020年、社会が大きな危機に晒されるなか、デヴィッド・グレーバーに出会えたことは僕にとって大きな出来事だったと思う(その彼が9月に亡くなってしまったことも含めて)。

グレーバーが『民主主義の非西洋起源について』で書いていた、こんな言葉が新しい年になったいまでも僕の頭のなかを占拠している。

何かが起こっている。問題は、それに呼び名を与えることだ。この動きの主要原理の多く(自己組織化、自発的結社、相互扶助、国家権力の拒絶)は、アナキズムの伝統に由来する。ところが、今日これらの発想を受け入れている人びとの多くは、自分たちを「アナキスト」と呼ぶことに乗り気ではないか、必死で拒絶している。実は民主主義という言葉もかつてはそうだったのだ。

アナキズムとしての民主主義。
僕はそれを「自治」だと理解していて、その可能性について、それ以来ずっと考えている。

もちろん無政府であることを望むものではないし、国家が不要とも思わない。
資本主義が問題であるとは考えていても、それがなくなるのが良いとも思わなければ、企業というものに失望しているのでもまったくない。

けれど、そこにもうひとつ個々人の集まりがもっと自覚的に築いていける自分たちの社会=コミュニティが入りこむ余地が必要なのだと思っている。

文字どおり第3のセクターとして。

だから、いま読んでいるジョルジョ・アガンベンの『いと高き貧しさ』のなかで展開される西洋中世の共住修道士における〈生の形式〉というありようはとても興味深い。

それは、所有に関する国有、私企業や個人による私有に加えて、共同体における公有の可能性について考えようとしていた僕に「所有」とは無関係の「使用」の可能性を開いてくれる。

ボナグラーツィアの言によると、「馬は事実上の使用をしながらも、自分が食する燕麦の所有権は持たないように、あらゆる所有権を放棄した修道士は、パン、ワイン、衣服の単純な事実上の使用をしている」のである。すなわち、ここでわたしたちに関心のある見方から言うなら、フランカシニズムは絶対的に法権利の諸規定の外にあって人間としての生活と実践を実現しようとする試みと定義することができるのである。そしてここにこそ、今日でもいまだに考察されておらず、社会の現状のもとではまったく考察不可能な、その斬新さはあるのだった。法権利によっては達成できないこの生を〈生の形式〉と呼ぶならば、"forma vitae"という連辞はフランシスカニズムのもっとも本来的な意図を表明しているということができる。

さまざまな財が、その使用価値よりも交換価値として金銭的に価値換算されてしまうことに所有をめぐる社会的な問題があるなかで、このアガンベンの指摘はいったいなんだろう。

まだ読み終えていないので、結論は急がないが、それでもいまこれを書いているのは、はやくも今年考えていきたい方向性がみえたことにワクワクしているからだ。

ともに生きるための方法の模索。

アガンベンの本にその新たな切り口をもらえた気がする。




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