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わかるとはどういうことだろう?

わかることに苦手意識をもっている人。
そういう人は、わからないということに必要以上に怯えていたりするんではないだろうか。

自分だけわかってないと疎外感を感じる?
わかってないとダメなんじゃないかと不安?

でも、ちゃんと考えてみてほしい。
この世界、そんなにわかってることだらけのはずはないではないか。むしろ、わからないことだらけで当たり前だろう。
わかることができないことにそんなに怯える必要もない。

もし、決定的にわかってないことがあるとすれば、そのことだ。

この世界は、大多数のわからないこととごくごく少しのわかってることでできている

なのに、なぜ、わからないことに怯えて、すこしでもわかろうとすることを楽しむことができないんだろうか。

「わかる」ということに対する認識がいま、とてもヘンなことになってしまっているのだと思う。

今回も1つ前の記事に続けて「わかる」ことと自分の意思との関係について書いてみたい。

わかるということ自体を何か別のものと勘違いしている

経験の背後に物自体はあるが、物自体は決して経験することができないといったのは、イマヌエル・カントだ。

そんな経験できない、ゆえにわかることなどできるはずもない物自体でできているのがこの世界だ。

そんな世界で生きながら、わからないということに過度に怯えて萎縮して、自分自身ではぜんぜんわかる努力をしないで生きるなんてまったくナンセンスでしかない。

物自体の側はそもそもわかることの外にあるのだから、わかるかわかれないかは、わかろうとする人の側だけの問題である。

それに、いろいろわかっていなかったとしても、そんな風に感じてしまっていたとしても、わからないのがデフォルトなんだから、そんなこといちいち気にとめる必要はない。

それに、わかるということがどういうことかを勘違いしなければ、何もわかることができないなんてことはよっぽどのことがなければない。
それなのに、ぜんぜんわからないと感じてるのなら、たぶん、それは自分がわかっているということがわからない、気づくことができないということだ

わかるということをまったくもって、別のものと取り違えてしまっている可能性が高い。

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わかるというのは、関係性をつくること

本人がわからないからわからない。
本人がわかればわかる。

トートロジーのような表現にも聞こえるが、そうではない。
わかる本人とわかったと思われる対象の関係について記述するとそうなるのだ。

対象に向き合って何らかの感じを受けとれる関係性がつくれているかどうか。
その関係性を自分自身で受け止められているか。

周囲との関係を受け止めて生きていられれば、そこに「わかる」はある

周囲と自分の関係が定まらず、びくびく怯えてすごしているなら、それがわかっていないということだ。

だから、このわからないことだらけの世界で人は基本びくびくしているのが正常なんじゃないかと思う。

そのなかでもすこしだけ、わかっていると思える関係性、それを結べる対象との関係が築けていれば、人はすこしは安心できる

そして、日々、そんなさまざまな対象とのあいだの新しい関係を結んでいくことに、人は生きていることの楽しみをおぼえることができるのではないか。

物自体は経験できなくても、人は経験の背後にある物自体との関係性を主体的に感じて、それを楽しみに生き続けているのではないか。

それとは比較にならない量の、ほとんどが闇の奥に隠れてしまって、わからない世界で。

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物自体は、道具となって退隠している

まったくそんな物自体の気配すら忘れて、人間のつくった情報だけにまみれてしまっているから、わかっているということのほうがデフォルトでもあるかのように勘違いしてしまう。
その勘違いから、わからない自分を恥じたりしてしまうのではないか。

このあたりに関係するものとして、グレアム・ハーマンが『四方対象』で展開している議論はわりかし好きだ。

ハーマンはマルティン・ハイデガーの「道具分析」をこんな風に解釈して、僕たちのなかで道具が、モノとしてあらわれる瞬間を描写している。

『存在と時間』におけるハイデガーの有名な道具分析が示すところによれば、私たちは普段事物を扱うとき、それらを意識の内で、手前にあるものとして観察しているのではなく、手許にあるものとして暗黙裡に信頼している。ハンマーやドリルが私たちに対して現れるのは、大抵の場合、それらが機能しなくなったときだけである。そうなるときまで、ハンマーやドリルは、決して現れることなく宇宙におけるそれらの実在性を成立させつつ、隠された背景へと退隠している。

カントの物自体の延長線上にある議論である。

ハイデガーいわく、ハンマーやドリルがそのモノとしての存在をあらわにするのは、道具として機能しなくなった=壊れたときだ。

ちゃんと機能しているあいだは、あたかも使っている人の手の延長としての道具であるかのようにモノとしての存在感は見えなくなっている。

それが「退隠」という言葉で示されたものだ。

物自体同士だってたがいを経験できない

面白いのは、「対象の退隠は、人間やいくつかの賢い動物だけを悩ます認知的トラウマではなく、あらゆる関係の恒久的な不十分さを表現しているのである」とハーマンは言っていることだ。

つまり、物自体を経験できないのは人間に限ったことではない。賢い動物、つまり、知性をもった動物ということだと思うが、そこにさえ限られない。

ハーマンがこんな風にカントに対する不満をもらすのを読むと、ハーマンが考えていることがわかってくる。

私のカントに対する不満は、彼が物自体を保持したことにではなく、物自体が関係一般でなく、人間の知識にだけ取り憑いていると考えたことである。わたしは、ホワイトヘッドと同様、即自が実在的だと主張する。しかし私はまた、その実在性は、人間主観だけでなく、無生物的な因果関係によっても到達不可能な状態に留まっているとも主張する。というのも、人間の意識から退隠しているのと同じように、火からも退隠している綿それ自体が、実際に存在しているのだから。

ハーマンが考えているのは、物自体同士だって、互いにほかの物自体を経験できない、そういう世界で、そういう存在同士が経験的には断絶しあっている世界だ。

私にみえる私の影響を受けた世界

では、ハーマンがこの世界で、人間が物自体から切り離されているだけでなく、物自体同士だってたがいに経験できない状態で切り離され、たがいに孤立してしまっている状態を想定してるのかというと、実はそうではない。

ハーマンはこんなことを書いている。

私は孤立した状態で、孤立したもの同士がただただバラバラに存在している世界に「ただ投げ入れられているだけではない」のだ。

私はただ投げ入れられているだけではない。この部屋にあるのは、自明で退屈な現前の集合にすぎないものではない。というのも、私自身の実在が、それらの事物の私への現れ方に影響を与えるからである。子どもや犬、アリであれば、私と同じ仕方でこの部屋に出会うことはないだろう。私が出会う事物は、私自身の可能性によって投企されており、その可能性は、他のどんな生物の可能性とも異なっているのである。

この世界という大きな部屋のなかにあるのは、退屈なほど安定した現実の集合なんかではない。

私にみえる世界は、私の影響を受けた世界だ。
それは必ずしも、僕にみえる世界と一致しない
だって、僕にみえる世界は僕の影響を受けているのだから。

これが、わかるということだと思う。

自分にみえている世界が、自分の影響を受けてそうみえているのだと認めたうえで、世界がどうみえているかをちゃんと自分で意識すること

自分で意識しないと仕方がない。

だって、誰かがみた世界は、その人に影響を受けた世界なのであって、それはあなたの影響を受けた世界とは違うのだから。

だから、他人がわかったことを、ただ受けとることに意味はない。
それは、他人と同じように世界をわかる必要がないということだし、そんな「わかる」こそ偽物だということでもある

わかることに正確も不正解もない

わかることと、誰かほかの人間がつくりだした知識を知ることとは別のことだと思う。

知識には正しさがあるかもしれないが、わかるということには正解も不正解もない

自分がちゃんとわかっているかを確かめるのに、他人の目を気にすることなど、すこしもない。
わかってるかどうかは、自分が影響を与えている対象から自分が感じたものをちゃんと認めて受け止められているかということなのだから。

それが対象と関係を結ぶということであり、モノとの共生の世界を生きるという、これまでの人間中心主義の世の中が忘れていた態度なのだと思う。

どうだろうか。

もっと、自分でわかることを増やしていくのが楽しいことだと思えてこないだろうか。


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