読むことと意思
文章だとわかりにくい。
話さないとわからない。
これっていったいどういうことなのだろう。
文章の方が自分のペースでゆっくり吟味できるから、わかるのに向いてそうだ。
でも、「テクストベースのチャットツールだと伝わらないので、zoomで話しましょう」というのはよく言われることだ。
文章だとわかりにくいものが、口で説明するとわかったと言われることもある。
なんで、そんなに文章だとわからないとなるのだろう?
不思議じゃない? なんでだと思う?
話し言葉だとわかるという幻想
いや、実際それはわかるのだ。
僕だって、文章で読むより、口で説明されたほうがわかることが多い。
でも、みんなと違うのは、文章だとわからないとは言うつもりはないということだ。
文章と、話し言葉、いったい何が違うのか?
違いは、文章だとわからない、口頭だとわかる、ではない。
本当の違いは、文章だとわからないところが目立つ、口頭だとわからないところに気づかずにわかったところばかりを意識できる、ということだ。
会話の場合、わからなかったところは流れて消えていくので気にならないが、文章だとわかろうとわかるまいと消えることなく残る。だから、わからない部分もいつまでも目の前に残る。消えてしまう話し言葉のようになかったことにできない。
まあ、あとは説明する側が相手がわからなかったらわかるまで説明してあげるということもあるだろう。
そういうことなんだと思う。
話し言葉だろうと、書き言葉だろうと、言葉そのものにわかりすいかどうかの違いがあるわけではない。
話し言葉の場合、わからないことがわかったことの影に隠れたり、話し手の側が相手がわかるまでに説明してあげることでわかる。
そういうことなのだから、理解する側の理解力は別に書き言葉より高まるわけではないのだと思う。
理解力が低い人にとって、ゆっくり自分のペースで読めてしまう書き言葉だと、流れていく会話のばあいより、自分が理解できていないということが、より強く意識されてしまうだけなんだと思う。
わからなくて当たり前、だとしたら、
でも、文章だとわからないという人は、本当に理解力だけの問題で文章が苦手なんだろうか。
僕はそうじゃないと思っている。
僕は比較的文章を読むのを苦にしないが、じゃあ、僕が理解力が人より優れているかというと、たぶん、そんなことはない。
理解力が人より優れているから、むずかしい本が読めたりするわけでは決してない。
じゃあ、なんでむずかしい本を読めるかというと、わからないことより、わかることにフォーカスしているからだと思う。
会話がわかりやすいのが、わからないことをスルーして、わかる部分を中心に聞いているからだとすれば、実は、文章を読むときだってその方法をとれば、会話を聞くのと変わらず、わかっていることだけに注目できるはずだ。
わかっているところを中心に読み進めていくと、あとでわからなかった部分で何が述べられていたか理解できたりもする。
それは、会話のときに相手が自分にわかるように説明してくれてるのと同じことが起こるからだ。
会話なら相手が自分に合わせてくれるが、本はタイミングを合わせてくれないけど、自分のほうが読み進めればどこかでタイミングが合うところに当たったりするのだ。
わからなくて当たり前、わかったらラッキーで、わかった部分を手立てにして読み進めれば、それは会話を聞くのと基本変わらないはずだ。
わからないと思って読み進められない人は自意識過剰なのだ。もちろん、わからないことに自意識過剰になるのは、そもそもわかるということに自信がもてていないからにほかならない。
意思がもてない人
わかるということに自信がもてず、わからないということに必要以上に自意識過剰となる。
その意味で、文章を読んでわからないという人は、基本的に自分の意思がもてない人なんだろうなと思う。
自分はこう思うを自分でつくれない人。
自分なりの考えというものをつくれない人。
ここでいう意思はたいそうなものではく、自分はこう思う、程度のものだ。
自分の意思がはっきりしてれば、相手が何を言っていようと、相手の言ってることが理解しきれなかったとしても、そんなには困らない。
少なくとも、自分の側から自分が意思することをベースに、「こういうことですか」と相手に伝えることができる。
それができれば自分が相手の話が理解できてなくても、自分の発言を相手が理解してくれれば「そうです」とか「いや、違うんです、ここは合ってるんですがこっちがこういうことなんですと」とか、理解の一致や差異を示してくれる。そのフィードバックから自分も相手のいうことの理解へ近づくことできる。
自分の意思をつくることができるとそういうキャッチボールを経て理解ができる。
文章だって同じだ。
意思をもてていて、かつ、さっき書いたようにわかるところだけ読んでいくと、途中で自分の意思と文章で言われていることの一致や差分がわかってきて、文章とのあいだのコミュニケーションが成立しはじめる。
それが可能なのは読んでる自分の側に意思があるからだ。
(まあ、意思が強すぎて、相手やまわりが見えなくなるとそれはそれであれだけど)
相手が何を言いたいかより、自分がどう感じたか
他人の言ってることをちゃんと理解できてるか。
本で書いてあることをちゃんと理解できてるか。
そんな風にびくびくと相手の顔色ばかりうかがおうとしてるから「わからない」ばかりが目立ってしまうのだ。
もう20年くらい前のことだと思うが、作家のジャン・ジュネが、ある記者会見でひとりの記者から自著の記述についてまったく見当違いな解釈を受けたのだが、それに対してジュネは「そう、私の言いたかったことはそういうことです」と答えていたことに驚いたという話を、『オリエンタリズム』や『知識人とは何か』などの著書で知られる文学研究者エドワード・サイードをなにかに書いていたのが印象に残っている。
サイードがたしか書いていたのは、ジュネが、言葉による他人とのコミュニケーションは合意が前提になるものではないと考えていたということだったかと思う。
わかるということは、そういうことなんだと思う。
書かれたことを元に、何も相手が何を言おうとしていたかを完璧に理解することはそもそもできないし、そんなことを目指す必要はないということなんだと思う。
それよりも大事なのは、それを読んで自分がどう考えたかであって、だからジュネは記者の解釈がどんなに見当違いであっても肯定したのだろう。
読んで自分がどう考えたか。
それが意思である。
忖度ばかりしてるから
相手がどうだろうと、自分はこう思うという意思がもてていれば、相手の話や本で書いてあることのわからないことにそんなに怯えなくていいはずだ。
自分の意思があれば、相手の話や本に書いてあることの一致のほうが親近感を感じて嬉しくなったり心強くなったりするはず。
そうならないのは、相手や本に対等に向き合おうとせず、顔色うかがって忖度ばかりしようとしているからなんだと思う。
大事なのは、他人がどうかではなく、自分がどう感じたか、どう考えているかなのに。
そんなに人目ばかり気にしてて楽しめてるのかな?
自分が日々やることを楽しいと思えたり、有意義だと感じられてる?
他人の顔色ばかり気にして、本当はやりたくもないこと、なんのためかわからないこと、いやいややってない?
そんな自分となんの関係があるのかわからないことをわからないまま、自分の意思もなくやる人が多いから、ブルシット・ジョブが増えるんだろうな。
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