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この気候危機のなか、水さえも私物化され、金融商品化されていく

今日知って驚いた。

アメリカ・シカゴの先物取引所「シカゴ・マーカンタイル取引所(CME)」は、2020年12月7日、ナスダックと提携して世界で初となる水先物を上場したという。

増大する水不足のリスクに備えて、需要量の大きい農業や製造業を中心にして水資源の管理に役立つとされているが、足りないものを資本のある一部のものが先物買いしてしまえば、水にありつけない者がたくさん出るだけだ。

ただでさえ、水道サービスが民営化されていて、料金が高騰していて、コロナ禍でも水で手が洗えない貧困層がいるアメリカで、この先物取引によってさらに水道料金の高騰が進めば致命的である。

宮城県の水道民営化の公募にスエズ社のグループ

この波は、日本でも他人事ではない。

2019年に日本で最初に上水道、下水道、工業用水の3事業を民間企業に売却するコンセッション方式の採用を決めた宮城県では、つい最近、この水道民営化の公募に3つの企業グループの応募があったことを発表している。

この3グループの1つには、30年ほど前にフランス各地で水道サービスの民営化を担い、水道料金の高騰やサービスの質の低下をもたらしたことで、この10年各地で再公営化によって契約を失った世界3大水メジャーの1社であるフランスのスエズ社が、前田建設工業などとグループを組んで参加しているとされている。

ヨーロッパにおける公共サービスの再公営化の運動の支援活動と研究をされている岸本聡子さんが著書『水道、再び公営化! 欧州・水の闘いから日本が学ぶこと』で、パリでの民営化による水道料金高騰の要因となった「両者」としてあげているうちの1社が、このスエズ社だ。

パリ市が主に運営してきた水道に、大きな変化が起きたのは、新自由主義の嵐が始まった1985年のことだった。のちに大統領となるジャック・シラクがパリ市長の時代に、市は、水道事業全体について、両者と25年間のコンセッション契約を結び、民営化したのだった。
(中略)
パリの水道料金は1985年の民営化以降、2009年までに265%も値上がりした。この間の物価上昇率は70.5%であった。それに比べてはるかに大きい上昇率だ。

ヨーロッパで市場を失って未開拓のアジア市場を虎視眈々と狙っている、ハイエナ企業にまんまと餌を分け与えるような選択に向かってしまうのだろうか。

問題は料金の高騰だけでなく、環境への悪影響も

岸本さんは、イギリスでの水道民営化による、こんな悪影響についても教えてくれる。

テムズ社は長年、EUの最低基準以下の下水処理しかしてこなかった。下水処理能力を向上させるために必要ない投資額40億ポンド(約5600億円)が調達できないと言い訳をし、十分に浄化されていない汚水をテムズ川に垂れ流していたのだ。
だが、テムズ社は2012年だけで2億7950万ポンド(約391億3000万円)も株主配当している。もし公営事業体であったなら株主配当は不要なので、14年もあれば下水処理の向上に必要な40億ポンドを蓄えられた。
(中略)
民営化は自治体にとってコストパフォーマンスが悪いだけでなく、環境保全のための貴重な時間―― その間にもテムズ川の水質は悪化する――までも奪いとってしまったのだ。

株主配当のための利益を確保するために、浄水能力向上のためのコストをかけることを渋り、結果として、環境保全を犠牲にしてしまっているのだとしたら、あんまりだ。

一方で、2010年に再公営化され、パリの水道事業を担う公社「オー・ド・パリ」が進めるきれいな水源を守るための環境保全の活動は、ずっと先の未来も視野に入れていて素晴らしい。

「オー・ド・パリ」は水質維持のため、水源地とその周辺エリアの農家に資金を投じ、有機農業を推奨するプロジェクトを進めている。有機農業への転換面積の目標や硝酸塩系農薬の不使用推進などが前述の「パフォーマンス契約」にも書き込まれている。
つまり、「オー・ド・パリ」は有機農法を行う農家の育成もミッションとしているというわけだ。従来の民営水道会社ではとても考えられない野心的な動きで、持続可能性を重視した次世代型の水道経営と言ってもよい。

民主的に運営されるということ

もちろん、公営であれば、こうなるというのではない。「オー・ド・パリ」がこのような姿勢を示しているのは、市民とともにあり、市民の意見もとりいれて運営される民主的な組織だからである。

先日のイベントでお話をうかがった際、岸本さんから、オー・ド・パリの代表を務めるセリア・ブリエールさんが記念式典で「わたしたちの株主は市民すべての人たちです」と話したというのを教えてもらった。

岸本 市民権がある人だけでない。移民や難民など水道への直接のアクセスがない人も含め、命を守るということなんですね。

オー・ド・パリはパリのさまざまな公園で炭酸水の無償提供を行っているが、これも「すべての人の生命を守る」という考えが形になったものなのだろく。水道にアクセスできずに手を洗えないという話とはまさに対照的だといえる。

それだけではない。「200年後の環境と地域を守ること」がオー・ド・パリのマネジメント計画には含まれていると岸本さんは教えてくれた。

岸本 ビジネス契約の25-30年は、契約としては長いんですけど、コモンズを守るものとしては短すぎるんですね。

コンセッション方式での民間企業との契約は、25年から30年もの長期にわたるそうだ。いま、こうした民営化の道を選べば、2046年から2051年までその影響は及んでしまうということになる。200年もの視野でしっかり考えないといけない環境のこと、さらにはそんな猶予もなく間近に迫った気候変動危機のことを考えると、どうして、いま民営化や水の先物取引などという話になるのか皆目理解できない。

目先の利益のみを追求しようとする企業のなすがままにさせておくのはどうにかできないものかと思う。僕ら自身、企業人として、この悪事を止められないことを愚かに思う必要があるのではないだろうか。

ゾーエーの排除

どうして、こんな馬鹿げたことの進行を止められないんだろう。

一部の者が利をとり、多くのものがそれによって不利益を受け、そして最終的には利益を得ていたはずのものももはや何も得られなくなる事態に突入していくしかないのに、どうして、そんな愚かな行為を止めることができないのだろうか?

ここで話題を大きく変えてみよう。
ジョルジョ・アガンベンの『身体の使用――脱構成的可能態の理論のために』を読んでみる。

アガンベンは、古代ギリシアでポリスの自治的な政治体制が維持されるとき、人間の生が、生物的な生としてのゾーエーと、政治的かつロゴス的な生としてのビオスが区別され、前者のゾーエーを排除する――と同時に包含する――ことで、その政治性を確立されていたことを指摘する。

政治的な生は必然的に《自足(アウタルキー)的な生》である。しかしまたこのことは、政治にとって不十分な生があるということ、そしてそれが政治的共同体にアクセスしうるためには自足的なものに転化しなければならないということを含意している。すなわち、自足は、スタシス〔内戦〕と同様、ひとつの生政治的な作動因であって、生活の共同体から政治的共同体への、たんなるゾーエーから政治的資質を付与された生への移行を許容したり拒否したりするのである。

人間が政治的な存在として都市=ポリスにおいて生きるために切り捨てられる、生物的な生=ゾーエー。

ここで切り捨てられるのは、個々人それぞれのなかにある生物学的な生であると同時に、自由人の外に置かれた奴隷であり、女性である。これらを排除するとともに、包含した状態をつくることで、都市における政治的な秩序をつくる方法は、現代における資本主義的なものによる搾取に通じるところがある。

アガンベンはこう書いている。

ゾーエーを政治的共同体から排除すると同時にそれのうちに包含する句切れが、同じ人間的な生の内部にあって走っている。そしてこの生の分割は西洋の人間性の歴史にとってかくも規定的であったため、それはいまだにわたしたちが政治学と社会科学だけでなく、自然科学と医学について思考するさいの様式をも決定しているのである。

このゾーエーを排除しようとしてきた西洋的伝統政治がまんま表面化したのが、コロナ禍におけるロックダウンであり、また、それと正反対のように思えて実は同じものでしかない経済優先の姿勢だ。いずれも人間的でロゴス的な生で政治的共同体を自足させるために、生命としての人間を外へと排除する(かつ実のところ包含する)態度だ。

思考へ

このゾーエーの切り離しを止めない限り、水なんていうどう考えてもパブリックリソースでしかないものを独占して、商品化(さらには金融商品化!)して、それにアクセスできない人を生み出そうなんて馬鹿げた活動を止めることはできないだろう。

「単一の存在が存在するとしたなら、その者は絶対的に無能力であろう」とアガンベンは書いている。
「わたしたちは他の者たちと交信しあえるのは、わたしたちのうちに他の者たちのうちと同じく可能態のままに残されているものをつうじてのみである」と書いたあとにだ。

まさに、ゾーエーを排除し、財の独占―搾取を行うものは、「単一の存在」であり「他の者たちと交信しあえる」力をもたない意味で「絶対的に無能力」である。その無能力な者たちが暴力装置を使って、この世の持続可能性を損なうほどの搾取を続けている。

これを止める方法があるとしたら、それはアガンベンのいう意味で「思考」することではないだろうか。

さまざまな生の形式をひとつの切り離しえないコンテクストへの、〈生の形式〉へと構成する連関をわたしたちは思考と呼ぶことにする。(中略)思考しているということは、たんにあれこれの事物、あれこれの進行中の思考の内容に触発されているということを意味しているのではなく、同時に、それを受けいれるみずからの感受性に触発されており、あらゆる思考されたもののなかで、思考することの純粋な可能態を経験するということを意味している。この意味では、思考はつねに自己の使用であって、ひとが特定の身体と接触しているかぎりで受けとる触発作用を含みもっている。

思考が足りないのだ。

僕らはもっと思考することで、自分自身を使っていかなくてはいけないのだろう。

他者によって、自己を使われることがないように。


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