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息をするように失敗したい

#あの失敗があったから

以前から「失敗」について思うことがあったので、上記のお題に沿って、書いてみたい。

「あの失敗があったから、今があるのだ」という失敗エピソードは、たぶん色んな方が書いていると思うので、ここでは「失敗」とは何かについて考えてみたいと思う。
もっといえば、私が感じる、「失敗」という言葉にまとわりつく、何ともいえない「ザラつき」について考えてみたいと思う。

広辞苑で「失敗」を調べると

「やってみたが、うまくいかないこと。
しそこなうこと。やりそこない。しくじり。」

と書かれている。しかし、漢字をよくよく見てみると、「失う」「敗れる」である。一体何を失い、何に敗れるのか?

広辞苑のニュアンスでは、何となく「トライ&エラー」や「ミス」のような感じがするけど、ビジュアルとしての漢字の方は、ちょっと被害者意識強めというか、自虐的というか、そんなに自分を責めなくてもいいんじゃない?と声をかけたくなるほどの「失う!」と「敗れる!」である。えも言えぬネガティブ感が漂っている。

 私の経験上「失敗した!」という感覚は、「ちょっとしたウッカリ忘れもの」レベルから、「法的にアウトじゃないかみたいなギリギリチョップ」レベルまで、結構振れ幅があるように思える。いずれにせよ、「現実に起きたことが、自分の理想・予想・ルール等と違ったときに自分だけが感じるもの」だと思う。

当然だが、自分の理想やルールのレベルが高ければ高いほど、現実とのギャップは大きくなり、「失敗」するリスクも高くなる。そう考えると、「失敗」とみなすか否かは、個人のボーダーラインの設定次第のような気もする。例えば、「スマホを家に忘れてきたけど、何とかなるでしょう」というボーダーライン、「これまでの事例を鑑みて今回の件は法的に問題ないでしょう」というボーダーラインだったとすれば、それらは大きな「失敗」にはならない。「ちょっと問題やけど、なんとかなる」レベルである。そして何よりこのボーダーラインの設定には、自分の「経験則」がものをいう気がする。

 ところで「失敗」という言葉を分かりやすくするために、英語の観点で見てみようと思う。
mistake、error、fault あたりの3つが「失敗」の意味にあたりそうである。ざっと調べてみると

mistake
不注意によるうっかりな失敗。軽度の失敗。ケアレスミス。(★☆☆☆)

error
予想だにしなかった、予測から逸脱した失敗。重度の失敗。(★★★☆)

fault
システム(機械や制度等)の機能上における欠点や障害・不具合。「責任」という意味もあることから、社会や組織等における責任を伴う失敗。これも人間社会では結構重度の失敗。(★★★★)

といったニュアンスである。一応全部「失敗」ということになるが、レベルで分けるとこんな感じかもしれない。

 他国の文化と比べ、時間にシビアで几帳面な性質をもつ現代日本人は、ボーダーラインの設定が比較的高めのような気がする。日本では「真面目で勤勉で努力する人」が、他者から賞賛され、高い評価を受ける。現に私はそういう教育を受けてきた。さらに、その「他者の期待」に先回りして、自ら進んでそれに応えようとする人を「気が利く人、できる人、忖度できる人、空気の読める人」といい、他者から高く評価される。これらの行いは「他者への思いやり」ともされ、「和」を重んじた「日本人の美徳」とされるものである。現に私は社会でそう感じる。

①「日本人の美徳」から発せられる「他者の期待」に応えること。

②期待に応えるために自ら高いレベルのボーダーラインを設定すること。


ここで改めて「失敗」とは、何か。
「何を失い、何に敗れるのか」を考えてみると

日本人としての美徳を失い、自分に敗れる

といった感じではないだろうか。
これは先ほどの英語でいえば、重度の失敗(error、fault)ぐらいの勢いではないだろうか。

 なかなか大袈裟のことを言ってしまったが、なんとなく「失敗は許されないもの」という、日本独特の「失敗」に対する空気感は上記のような感覚(現代日本の社会や教育の中で幼少期から培われてきたもの)が無意識にあるからではないだろうか。
「気が利かない奴だ、空気の読めない奴だ」と、他者から嫌われてしまう。コミュニティから外されてしまう。そうすると、オートマティックに、失敗を恐れ、失敗を避けたがる。同調圧力にも屈する。

赤ん坊の頃から、無数の「失敗」を重ねて、今があるにも関わらず!!

「失敗すること」は決して重大な失敗(error、fault) ではない。「失敗を避けること」が本当の重大な失敗(error、fault )といえる。もっといえば、「失敗を避けること」がヒューマンエラー(error)を生み、進化するシステムにおいて重大な欠点・障害(fault)となりえるのではないか。

「失敗」は本来、冒頭の広辞苑の意味のように「やってみたが、うまくいかないこと」、つまりトライ&エラーの意味合いで捉えられるのが自然ではないかと思う。そこに加え、日々の「しくじり」という日常のうっかりミス(mistake)の要素があるのだと思う。

ただ、その意味であるはずの「失敗」(トライ&エラーとミス)の表層に「日本人の美徳」という、文化的・社会的暗黙のコーティングが施されている。これが「失敗」にまとわりつく「ザラつき」の正体であると考える。

 「失敗」は、息をするようにもっと身近で日常的であると思う。失敗をするな!というのは、息をするな!と言うようなものである。その「失敗の回避」は逆に、ありのままの自然観を大切にしてきた古来日本の性質とも乖離してしまうような気がする。

不思議なのは、この「失敗の回避」はよくよく考えると「自己保身」に他ならないのである。「他者の期待」のためにやっているのに、実は利己的なのである。失敗したあとに、その失態を「評価されたかった相手」にとがめられ、「あなたのためにそうしたのに!」と言い放ったとしても、それを決めたのは、他ならぬ自分である。自己肯定のダシに相手を利用し、巻き込んだだけである。相手には何の非もない(「私はそんなことを頼んだ覚えはない」といわれるのがオチ)。非があるとすれば、自分自身である!と言ってしまいたいところだが、おそらく自分でも相手でもなく、この「暗黙の社会構造」にあると思う。

おそらくこの古来日本の美徳との乖離は、江戸時代開国以降の西欧列強、太平洋戦争敗戦後の連合軍による占拠に要因があるのではないかと思う。唯物主義や個人主義といった西洋思想の流入。それまでの東洋思想にはなかった「不安や死をおそれ、過度に安全を求める絶対的な宗教観」。それらが古来日本の「和」の精神を媒体に(「他者への思いやり」につけ込んで)、中途半端に西洋思想を持ち合わせた、ハイブリッドな思想が拡がったのではないかと思う。そこには「なるようになるさ。ありのままに。仕方ないよね。」といった古来日本の自然観が薄れているように思える。

 お題のテーマのように、あの失敗があったから今の私があるんだ、という「失敗エピソード」を話すその話し手に共感できる理由は、「日本人としての美徳を失い、自分に敗れた」経験をさらけ出すことで、「失敗は許されない」という、社会の暗黙で張りつめている空気を緩めてくれるからだと思う。つまり、それらには必ず「自分を許してやりなよ。他者のために生きなくてもいいんだよ。自分を大切にしてやりなよ。」といった自己の許容を勧めるようなメッセージがあるような気がする。

 「失敗は成功の基」という故事があるように、「失敗」は「糧」であり、得るものである。何も失わないし、何にも敗れない。「失敗」は建設的行為である。その「失敗」の積み上げが「経験則」となり、それにより自分の理想と現実のギャップを縮めていくことができ、次第に自分の生きやすさにつながっていくのではないかと思う。

 これまで書いてきたように、失敗による罪悪感は、「失う」と「敗れる」という社会的暗黙の認識から来ていると考えた。その罪悪感から逃れ、「他者の期待」に応えるという「日本人の美徳」のもと、「失敗の回避」に走る。しかし、もしその「失敗の回避」が本当に「失敗」したとき、凄まじい罪悪感にさいなまれ、いよいよ本格的な自己否定に突入し、鬱や自殺を引き起こしかねない。そうなったときに、はじめて本当の自分と対峙することになる。これがいわゆる「失敗」を機とする「人生の転機」なのではないだろうか。そして「#あの失敗があったから」というエピソードが生成されるのだと思う。

 現実のところ「失敗」しても、何も失わないし、何にも敗れない。逆に「失敗」なしでどうやって今まで生きてきたのか?

予測不能なことが起こるのは自然界では当たり前であり、その度にトライ&エラーを繰り返し、適応し、生命体は進化してきたのであり、進化していくのである。

人間界の前に自然界がある。そもそも定義しようのない「自然」を定義し、勝手にボーダーラインを設定したのも人間。人間界など「風の前の塵に同じ」である。「失敗」に抱く自分の幻想に気づくことで、「失敗」にまとわりつくネガティヴな「ザラつき」を自らの手で取り除くことができる。

 こんなことを書きつつも、私自身も、もれなく「失敗」を恐れる一人の大人であることを、最後に注意書きとして記しておきたい。この思考を実行に移すことも「トライ&エラー」であるという気持ちで、自他の「失敗」をもっと自然なものとして捉えながら、日々暮らしていきたい。

息をするように失敗できる、自然な自分でありたいと思う。


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