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タミイ・M
2020年8月22日 13:49
エッセイの元になったのは闘病中に書いていた日記で、「乳がんサバイバー」の10倍以上の分量がある。ハワイにいた6年間書き続けた。しかし「乳がんサバイバー」では2003年の乳がん発覚から2005年の7回目の卵巣手術で終わっている。その後の事を少し書き足そうと思う。* * * 子宮卵巣を切除した後は、飲み続けていた抗ホルモン剤を変えることになった。以前はタミキシフェンという薬を飲んでいた。
2020年8月21日 12:00
子宮と卵巣手術が終わり、退院した。やっと自分のベッドでぐっすりと寝た。少し退院が早すぎたかもしれない。夜から具合が悪くなる。今回も耳鳴りと言うか頭の奥で嵐のようなゴウゴウという音がする。時々痛み止めのロクサセットを飲み、昏々と眠る。退院するといつも夫が「君のソウルフードだよ」と白いご飯を炊いてくれて、みそ汁を作ってくれる。白いごはんと具の入っていないみそ汁は体中にしみ込むようだった。
2020年8月17日 11:45
2004年5月の終わりになっていた。家の片付け、食品買い出し、そして料理。忙しいけれど、普通で、とても幸せな日々だった。家具を動かしたリ、買い換えたりしていた。そしてボランティアもあれこれ始めていた。基地の募金コンサートでホットドッグ売りをした。抗がん剤からではなく、本物の体の疲れを実感して嬉しかったりした。そんな穏やかな日々だったのだが、今度は夫の母親が乳がんになったというのだ。私
2020年8月16日 09:14
2004年 3月30日ついにこの日再建用の前手術をした。左乳房全摘出手術をしてから約一年経っていた。手術をした左胸の皮膚の下にティッシュエクスパンダーというものを入れた。これは簡単に言うと水風船のようなもので、この袋の中に徐々に生理食塩水を入れて皮膚を少しづつ伸ばしていく。大変な手術ではないらしいのだが、私の場合は皮膚が癒着していたのと皮膚も火傷のあとのケロイドに近く固まっていて、とて
2020年8月15日 09:12
手術、抗がん剤、放射線治療といわゆる標準治療がやっと終わった。3月にハワイに来て7か月以上たっていた。ちょうど良いタイミングでピンクリボンのレースフォーキュアというイベントがあった。ピンクリボンとは(乳がん早期発見して死亡率を減らそう)という運動だ。乳がん撲滅のための募金集めのために行われるランニングとウォーキングレースだ。その1マイル(1.6キロ)ウオーキングに参加した。5時に起き
2020年8月14日 06:18
放射線治療は途中まで、同じことの繰り返しだった。受付で名前を言い、着替えて放射線室へ。寝たまま左腕を伸ばして白い大きな機械を通る。20回を超える頃から副作用も強くなってきた。だるさと腹痛だ。それから肌もどんどん焼けてきた。手術の痕を中心に四角く黒くなってくる。「いい感じにトーストになってるわ~」とドクターSは笑う。 「ちょっと痛くなってきました」「うん、やけどと同じだからね。塗り薬
2020年8月13日 13:06
8月の終わり。ついに放射線治療が始まった。放射線治療とはものすごく簡単に言ってしまうと、残っている可能性のある癌細胞を放射線で(焼いてしまう)治療だ。放射線は大好きなドクターSなので会えるのが楽しみだった。一日目なので写真を撮り、放射線の位置を決めるのに1時間かかった。 ずっと裸なので寒くなってしまった。左腕も上げっぱなしで痛い。 胸に直接マジックでたくさん線を引かれた。それだけで
2020年8月12日 08:11
8月の最後の抗がん剤の前に基地の施設からタウンハウスへ移れることになった。ビーチエリアと行ってもワイキキではなく、西側のエバビーチという場所だ。タウンハウスというのは家が二軒横にくっついている集合住宅だ。一階2階が住居になる。今度はここに3か月間契約をした。日本からの荷物はコンテナに入ったまま港に保管してあった。これは家が建ったら運び込まれることになっている。息子は3年生からここ地元の小学