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93歳の祖父に優しくなれるまで

幼い孫に まったく優しくない頑固ジジイ



北海道の実家は酪農家で、父方の祖父母と私が高校になるまで過ごしていた。
両親は主に朝晩は牛の乳を搾る仕事をしてるので、家には居らず、祖母がご飯を作ってくれてスクールバスで学校に行くというルーティン。

実家は道東で、学校も学年は基本的に1クラスだけで
人数は20人居れば多いね~という感じの過疎地なので基本的にスクールバスは朝は1便だけ。帰りは2便だけ。

小中学校は部活をするとなると、基本的に冬は車で送迎してもらわないといけない。高校はバス停までお迎えに来て貰えばよかったが、うちの家族は基本的に部活の参加は反対していた。ほかの家のおじいちゃん、おばあちゃんは、可愛い孫のためにと喜んで部活の送迎に来るのに、うちの祖父が基本的には文句を言いながら渋々やってくるか、来ないというパターンすら有った。

二人姉妹の長女が私。
祖父は迎えに来ても『おまえは牧場を継ぐんだ!部活なんて意味がない!』と車中で私や妹に文句を垂れまくり、全く私たちはいい気分はしなかった。

この様に、実家で共に住まう私と妹に祖父が優しくすることはまず無かった。しかし、遠くから従兄弟が来ると、ニコニコして小遣いなんかあげてるとゾッとした。
従兄弟には、リアルなこのジジイの姿を知らぬやろ!!
従兄弟って気楽よね…と思ったもんだ。

離れてもまだ好きになれなかった20代

自然と祖父を毛嫌いしたまま、私は18歳で札幌に専門学校に通うため移住した。数年して、転職のため関東へ移住。

実家に帰っても、祖父は帰省を喜んでくれることは、ずーーーっとなかったし、時にはハガキや電話で
お前が酪農家の跡継ぎをするんだ!
と凄い剣幕のメッセージを送りつけてくることもあった。私の夢とか、やりたいことなんて幼い頃から聞いてくれたことは一度もなかった。

優しい家庭に生まれ育っていたなら、夢を後押ししてあげようとか、就職先で辛いことが有ったりしたら泣いて実家に戻るんだろうけど、私にはその場所は地獄にしか見えなかったから、死ぬ気で頑張るしかなかった。

とてもパワハラの激しい職場に居た時は、両親にツラいと言っても"頑張りが足りない"と言われることが多く、毎日精神的に追い詰められるような言い掛かりを上司からされまくり、私の心の逃げ場はなくドンドン追い詰められていってた。
あまりにツラくて、札幌の地下鉄で大泣きして帰ったこともあった。
当時は精神科にこそ行かなかったが、酒を飲むと大泣きしてススキノの横断歩道を渡ってたり、アルコールを飲むと人格が酷くなって、昼間は手も震えるしアル中だった。

幼少期から、祖父母や父から自分のことを応援して貰えてると全く思えなかった事、自分の意見を言っても認められなかったこと。それは自分という人格形成において、どこか歪みを確実に起こしていた。
何をするにも親に認められることしか選べないという深い思い込み。自分を誤魔化す日々。
忍耐力は養われたのかもしれないけれど、本当はこんなことしたくないのに我慢しないといけない毎日。
その職場は4年頑張ったが、最後の頃にはストレスで色んな病気になり、流石に母親が仕事辞めて良いよと言って貰えて辞めた。その時も、実家の酪農継いでいいんだよと言われた。
私の意見は聞いてくれない。子供を何だと思ってるんだろと思った私の人生は、紆余曲折そのもの。
父や祖父には隙を見せてはいけない。
家族なのに、心の壁は物凄く高かった。

今で言うとダメ夫?!の祖父

祖父は真面目な酪農家ではなく、実は父が若い頃からあまり働かず…株に没頭していた人だったらしい。
祖父の朝は、日経の朝刊で株価を調べて帳簿を付け、そのあとはラジオでも株価やニュースをチェック。
証券会社から定期的に連絡がくる。
タバコの銘柄は"わかば" 
ヘビースモーカー
祖父は男性ばかり5人兄弟で、株は兄弟でやっていた。
酪農は基本的には、子牛の世話がメイン。

父は幼い頃から働かない祖父の代わりに、祖母を助けて働いていたから、反りが合わず喧嘩が絶えなかった。
祖父は朝早くは起きない。
完全に今で言うと、祖父はダメ夫かもしれない。

父も祖父も顔を合わせば喧嘩ばかりだし、唯一、祖父が私たちに話そうとすることは株の話、農家の経営の話。
そんな祖父の後を、祖母が追いかけてきて
『株の話しは聞くな!生きるか死ぬかの大勝負だど!』
と、怒鳴ってた。
母も頻繁に家出しちゃうし…まとまりゼロの家族。
妹は母が家出すると泣いて、祖父母に慰めて貰えてた。
私だけ放置…。放置少女だ。
祖母が居たからなんとかなってたところもある。
私は、妹は跡継ぎをしろとも言われない、優しくしてもらえるのでホントにズルいと思っていた。

そんなだから、よく1人で自転車にのって
夕焼けをながめたり
暗くなるまで外で夜空の月を眺めてた。

牢獄が生んだ闇  私の高校までの日々


中学ではスパルタ部活。
ツラくて時折、朝の自転車通学で怪我できたらいいのにとか、最悪再起不能になればいいのにとも思ってた。
勿論、学びは沢山あったけど本当にスパルタ部活だった。一年が物凄く長く感じた。

高校では2年生からいじめを受けた。
家族には言えなかったけど、身体が色んな病気を発症してピンチ!って言い続けてた。蕁麻疹で眠れない。
体重が急激に落ちて病院に行けと保健室の先生にいわれる。子宮の病気が激しくなって、マラソンしても動けなくなって車で搬送されることもあった。
体育はしばらく参加が禁止された。
身体が弱いなんて、よわっちいな
父や祖父はそういつもいって、私は心配されてなかった。祖母や母はなんだかんだ心配してくれていた。

逃げたい。こんな自由のない田舎。
得意なダンスが出来る都会の学校に行きたかった。
親が地元の高校以外に行かせてくれたら、こんなはずじゃなかったかもしれないのに。
どこか電車がびゅんびゅんいつでも走ってて
自由に動ける場所で生きれたら
気晴らしでもできて、自由に逃げれるのに
どんなに楽だろうか? 
家族は信じられないし、私を否定するばかり
まるで牢獄に閉じ込められてるようだと思っていた。

ある日、同じようにいじめを受けてたクラスメイトが
札幌に逃亡した。心配だったけど、逃亡先から連絡をたしかくれたのかな? 凄いなぁと思った。
お金を持って逃げたのか?凄く心配した記憶がある。
奴はよく電話をくれて同じように不自由と戦ってたのかなと思う。

高校から長くつきあった彼氏がいた。
彼のお家は家族が仲良くて理想の家族であった。
彼の家族に私はかなりメンタル的に救われたところが多い。本当に感謝している。
結婚をのちのち断ったのだけど、それは自分があの田舎で暮らすことに、親になることに自信が持てなかったからだ。大好きな彼の家族を、自分の実家の家族のように嫌いになるんじゃないか?
子供を虐待し、私と同じ悩みを持たせるんじゃないか?
私は自分に自信がなく、精神的に安定してなかったので、結婚しなくて良かったと思っている。
今なら奴も大人になったので、それを理解してくれると思うけれど、当時はそういうことが理解して貰えなかった。
自分を幸せに出来ないと、人も幸せにできない。
30代になるまで私は本当のこの言葉の意味を理解できず、ずっと祖父や親や周りの理想の自分で居ようと思ってた。そこに、本当の自分はいなかった。

自分が幸せで、キラキラしてる友達や人を疎んでいた。
やりたいことを、懸命にしてる人に素直に"いいね!"って言えるようになれたのは、30代になってからだ。
私のやりたいことは、私が決めることで
他人が、家族すら決めることではない。
やりたいことにトライし始めた私がやっと気がつけたことだった。

祖母を亡くした祖父に…

祖父より祖母は一歳年上で、80歳半ばになって
祖母が寝たきりになり、亡くなりそうになると
『なんかじいちゃん小さくなったな』
と思った。じいちゃんは急に物腰が柔らかくなった。

祖父と祖母は昔ながらの、家同志で勝手に決められて、突然会って結婚する!と言うぶっ飛んだパターンとはいえ、もう話せなくてチューブだらけの祖母の足元に、パイプ椅子でちょこんと座って、たまに

『ばぁさん…』

と声をかけて、ただ寄り添ってるだけの姿を見てると
やっぱり好きなんだなと感じ、急に心配になった。
一緒に行きたいなんて言わないよね??
いや、あのジジイはそんなにあまちゃんではないと思いたかった。
なんだかんだ言って、良いコンビだったのだろう。
あれだけ株はするなと言ってた祖母だが、最後の頃には祖父に色々金銭面を心配してお願いをしていたようだった。

ばあちゃんは、私がお盆休みを終えて関東に帰った翌日の朝に、猫みたいに亡くなった。
みんなが朝方お見舞いから帰っていって、おばさん1人が付き添ってる時に、おばさんが
『母さん、もう、頑張らなくて良いよ』
と言ったら息を静かに引き取ったそうだ。

猫は、死にそうだとわかると行方をくらまして
ひっそり亡くなる。

みんなが祖父を心配したが、祖父は気丈であった。
実家に帰ってきた、祖母の遺体は痩せこけて、顔は別人のようになっていた。怖いとも思った。人が亡くなると、家に返して貰えるんだと改めて思い出した。 

夜になると祖父は祖母の隣に普通に布団を敷いた。

『じいちゃん怖くないの?』

私は聞いた。

『ばあさんと寝るんだぁ』
と、にっこり祖父は笑った。私はハッとした。

私が専門学校時代、病院実習期間に霊安室の前を通らないとゴミを捨てられず、毎回通るのが怖かった。 
ご遺体は勝手にオバケのように思ってたけれど、いろんな人の大切な家族だ。
クソ頑固ジジイなんて思っててゴメンね、めちゃ温かい人だねと、この頃から思うようになった。

火葬場から自宅に帰るときも
祖父はまだ暖かい祖母のお骨を持って父が運転する車に一緒に乗った。私は助手席。
『さぁ みんなで家に帰ろう』
父が言った。なんか祖父を励ましてるようで、
私はその言葉が嬉しかった。

祖母を亡くして 祖父がオチャメになる

祖母が亡くなった後、何年経ったのだろう
しばらくして急に祖父が可愛くなった。
過疎化の進む北海道の小さな町
ご近所さん、親戚が沢山亡くなった。

祖父は昔から人と仲良くするということが苦手な
困ったチャンではあり、マイペースで頑固なことに変わりはない。93歳なのに、まだ株してるけどボケ防止でいいのかもしれない。空気を読まないジジイは最強なのかもしれないと思った。

私はじいちゃんにたまに絵を描いたり、Tシャツを作ってあげたりしたら、着てくれていたり。電話も時折するようになった。少しでも元気になって貰いたいと思うようになっていた。

妹が2児の母となり実家の近くに住んでるので、よく行ってくれるのも嬉しい。

昔は、私が可愛いなんて態度を取らなかったジジイも
『おーーおまえ元気か! よかったなぁ~💕』
と私が電話すると大喜びで話してくれる。

『ちゃんと、今年は帰るから元気で居てね! 』
と私もありったけのラブを返す。
長い長い年月を経て、生きてるうちに祖父を大切に思えるようになれて、祖父も喜びを素直に返してくれる関係になれて本当に良かったと思っている。

家族   犯罪と表裏一体    愛も表裏一体

憎しみと愛情は裏返しと聞く。犯罪の大半は血縁関係が多いとも聞く。凄くよく想像できる。
私がメチャクチャ気が強くて、こんな爺さん耐えられないぜ!という性格だったり、男性だったら?
よく、ニュースで祖父を孫が殺めてしまったということも聞く。
近所の人が、近所の子供を見守るようなことが現代において無くなってきて、家族は小さな籠城になりつつある。近所のおばちゃんに愚痴れるだけでも、全然気持ちのモヤモヤは晴れる。
そして子供にとっては、シェルターとか逃げれる場所があるとか、保護して貰えるとか選択肢があることすら知らない子が殆どだと思うが、家族を信じたいと思う気もちは強いから自分から選択が難しいだろう。
そういう背景からネグレクトに遭っていても、見つけられずに悲しい結末を迎えたり、感情のままに大きな事件を起こす子供が増えているのかもしれない。

私はなまじオバケの存在を信じてるから、どんなに憎くても殺したらメチャクチャ恨まれたり、霊につきまとわれそうだし、悪夢見そうだから絶対に嫌だからやらないし、逃げるを選ぶし選んできた。

近くに居すぎるから、憎くなるし
本当の良さや大切さに気がつけなくなる。
私は祖父と離れてみて、時折いろんな話をしてみて歩み寄ったときに、意外な一面を知れて好きになった。

私は父がまだ苦手だけど、父に泣きながらでも
気持ちを伝えることが出来るようになってきた。
そして、父が
『俺も爺さんが苦手で、喧嘩ばっかりするけど
どんな人でも良いところがあるからさ』
と言った言葉が印象的だった。

家族というのは、生まれてくる前にミーティングをしてどういうチームでシナリオを辿るのか打ち合わせするらしい。

時間をかけて家族と向きあう。
痛みを伴っても言いたいことを言う。
喧嘩もしてみる。そうしていけば、いつか笑顔で仲良くなれるのだと祖父との人生で学んだ。

誰しも当てはまるとは言えないけれど
家族問題には忍耐力が必要であります。
まだまだ生きて貰いますよ!と祖父には言ってある。

私のトンでもジジイ
『100歳まで生きて100万円貰おう!』

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