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魔法の言葉「あっち」を覚えた息子の話

息子が一歳十ヶ月になった。子供を産む前は、ひと月ごとに子供の成長の節目を感じるとは思わなかった。ひと月の節目を迎えると、深呼吸を一つして天井を仰ぎ、今月も良く頑張ったと自分を褒めてあげたい気持ちになる。そして子供の成長の早さに毎月驚いている。

一歳九ヶ月と一歳十ヶ月の何が違うのか。コミュニケーションの引き出しが明らかに増えてきた。言葉の数が飛躍的に増えたわけではない。抱っこの事は相変わらず舌ったらずに「あっこ」と言い続けるし、バナナの事も「ママ」と言う。母親である私のことをママと認識しているのか不安である。

私に向かって「ママー」と叫んでいる事もあるけれども、バナナを欲しがっているのか判断できない。キッチンカウンターに置いてあるバナナを指さして「ママ」と欲しがるのが日常なので、息子の中でママは完全にバナナの事ではないかと疑っている。バナナにママの座を奪われたので、本当のママは立場がない。

さて、この一ヶ月で新たに覚えた魔法の言葉は「あっち」だった。「あっこ」と言って大人に抱っこしてもらい、愛情をたっぷり抱擁から受け取ると、「あっち」と指をさして自分の望む方向に大人を誘導するのだ。

自分の行きたい方向を主張して、大人を操り自分の願いを叶える。例えば抱っこして、「あっち」という方向に向かって歩くと、マンションの玄関を抜けて、階段を降り、駐車場を指差してドライブに行きたいと主張する。僕をここではないどこかに連れていってと、「あっこ」と「あっち」だけで説明する。二語文になっているのか分からないけれども、この二語だけで小さな息子と会話をしている気分になって、心が通った喜びに胸があたたかくなる。

「あっち」はなかなか万能で、西松屋に行こうとするものならば、お店に入った瞬間に貸し出し用のベビーカーを「あっち」と指差して乗りたいと表現する。ベビーカーを何と言うか分からない息子は、名詞のボキャブラリーが極端に少ないのを「あっち」の一言で済ませるのだ。

指示語を一つ覚えるだけで、息子はまるで王様のように両親に対してありとあらゆる命令ができるようになったわけだ。「あっち」とボディーランゲージを使って要求を伝えることができるのは大きな成長だろう。「あっち」は願いが叶う魔法の言葉として、保育園で習得してきたに違いない。

ただし我々も親である。なんでもかんでも言うことを聞くわけではない。言い分が通らないと涙を流して悔しそうに「あっちい!」と声を絞り出す姿も、また可愛らしい。「あっち」の一言で何でも願いが叶ったら、他の言葉を覚えるモチベーションも低くなるだろう。

最近買ってあげたプルバックカーは対象年齢がなんと六歳以上だった。ちょっと早かったのかなと思いつつ与えたら、乱暴に扱いすぎてタイヤを大破させた。あろうことか車輪を分解し、タイヤを取り外して口の中で転がして遊んでいた。これは間違えて飲み込んだり、喉に詰まってしまう恐れがある。危ないので息子の手に届かない、壁掛けラックの高い位置にプルバックカーを緊急避難させると、めざとく見つけた息子は「あっち!」と指をさして「あそこに隠しているのはバレている!僕によこすのだ!」と猛然と主張するのだ。

「●●ちゃんが壊したから、あげられないよ」と首を振って拒否すると、顔をクシャクシャにして涙を滲ませ「あっち!」と鋭く指をさす。首を振るのは拒否のメッセージだ。息子も良く使うので伝わっているはずだ。拒否されている事を理解した息子は床に背中を打ちつけて転がり、大の字になって手の指、足の指の先を全開に広げてバタバタと動かし、口を大きく開けて「あーん!」と泣きながら悲しみを表現する。

「あっち」は魔法の言葉ではなかったのではないか。こんなはずない。おかしい。あっちと言えば何でも言うことを聞いてくれるはずではないか。あっちとは一体なんだったのか。何度も「あっち」と繰り返し泣きながら発信する息子は、ついに相手してもらえない事に気がつき「あっち」の限界を学んだ。

思えば、息子が覚えた言葉の中で「あっち」ほど効果の高い言葉あっただろうか。ママと言えばバナナがもらえるだけである。あっこは抱っこしてもらえるだけだ。あっちは汎用性が高い。あっちと指させば名詞の分からない欲しいものが手に入る。名詞の分からない場所に連れて行ってもらえる。「あっち」は息子にとって、無敵のスーパーパワーを得たような輝きを得られた体験だったのだろう。

息子は、ちょうちょの歌を「ちょちょちょ〜」と歌い、キラキラ光るの「きーらーきーらー」のフレーズだけを無限ループさせ、QUEEN のwe will rock youを歌えばサビで一緒に「ろっきゅー!」と口ずさむ。少しずつ、少しずつ言葉を覚えて、噂に聞く「ある日突然言葉が爆発する日」を心待ちにしている。

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