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厳格解釈ー縮小解釈

日本刑法199条(殺人罪)の 「人」は,広い意味ではすべての人間を意味しますが,狭い意味では「他 人」という意味になります。

この「人」を広く解釈すれば、自分も含まれ自殺者は殺人罪となりますし、狭い解釈をすれば、他人を殺した場合だけ殺人罪となる。

これが拡張解釈と厳格(縮小)解釈

さて、今回のGPS監視が「見張り行為」に当たらないと判断した司法界。

被害者から見れば「とんでもない!」となります。

しかし高裁は「被告は被害者の居場所から離れた場所で位置情報を取得していた」とし、見張りには当たらないと結論付けた。つまり側にいて相手に危険を伴う様な行動ではないという事。GPS使用でも、危険行為があからさまに見える場合と、あくまで怨恨感情のみでの法益侵害が不明瞭な場合では処罰が一緒ではおかしいと言う判断でしょう。

被害者の「不安感」「迷惑感」はあくまで抽象的で証明が難しい点と危険が明確に認められなければ法的には「許される行為」となる。

また「明確性の原則」の点でも何が「見張り」なのかと言う定義づけも簡単ではないと思う。個人の行動範囲を認知する事は決してGPSだけではない。個人の行動範囲を認知してるから「見張り」となれば、これまた別な問題が出る。

且つ「安全な見張り」と「危険な見張り」が存在する。子供の安全を維持するためにGPSで子供を「見張る」。今回高裁が「GPS監視は見張り行為」と判決したら、子供の安全維持のGPS操作も「犯罪」となり得る。

ストーカー問題同様、この問題は非常に難しい側面を含んでいる。

マスコミは「非常識!」的な報道をするだけではなく、キチンと説明して欲しいものだ。

何度もこのブログで述べているが、法は最大公約数を主軸にしている。どうしても「法の不備」的な側面は避けられない。だからといって現状のままで良いとは思わないが、多くの方が感情論で思考するより実際問題は複雑で厄介な側面があり、単純に変更や改善や判断はできないと言う事実を認識しておいた方がいい。

昨今司法界が感情論での動向に動かされている様に見える側面もあるが、人間の感情論と法律は別物であり、可能な限り世相でブレる様な法律ではいけないと思う。感情は一時的な側面も含むし、時代背景も含む。短期的な環境に左右される利益を主軸に法律が決まってしまうなら、その時点で法律と呼べるのかどうかの問題も出てくる。法律は最大公約数の利益を主軸に成り立ち、時に人間に慈悲ある結果を生み出すが、時に非常に冷酷な結果をもたらす場合もある。その対象が弱者だろうが加害者だろうが、法のもとには平等である。

人間の利益の為に存在する法律。

その利益とは万人向けの利益ではない。

「法の不備」「ジレンマ」「矛盾」それらは人間が人間社会ゆえに生まれる問題です。貴方の不利益は相手の利益。「安全な社会でありたい」「便利な社会でありたい」これだって時には矛盾を生み出し問題を起こします。それは人間が判断し人間が法を利用しようとするからです。単純な会社規定だって自分の損は相手の利益になるケースが多々あります。だからといって、その時の権力やムーブメントでコロコロと規定や法律を替えていたら収集がつかなくなります。

「法に不備がある」と叫ぶだけなら誰でもできます。人間は矛盾を糧に生きている動物ですから、当然のことです。

勿論、多くの被害者の方々にとってより温かい結果を生み出す様日々問題提起し考えて改善していく努力は継続して行うことが今生きている人間の責務と思います。そしてそれは「法に不備あり」「高裁は間違っている」と叫ぶ事では無いのです。矛盾を生み出す人間という生き物を良く理解していく事が、改善への道を開いていきます。

法律の世界は化学実験の様になかなか実証が難しいから問題もある。同時に矛盾を糧に生きている人間社会で、矛盾を切り捨てる事はあってはならないという問題も含みます。矛盾を切り捨てるとは、戦中にナチスが行なった言動に繋がります。世の中を良くする、犯罪者が出ない様にする、だから犯罪者を切り捨てていくとなり、世界中で過去に犯した「狂った正義」になるのです。

何度も言いますが、人間は矛盾を糧に生きています。矛盾無くして人間は生きていけないのです。ですので法だろうが趣味趣向だろうが、様々な価値観は矛盾だらけになり、人間社会は矛盾に満ちた世界になっているのです。

過去の人類は、この矛盾を「悪」として切り捨てようとしてきました。結果戦争や虐殺を「正義」という言葉で実行してきたのです。この過ちを繰り返してはいけないのです。

今回の問題も感情論では非常に思うところは多々ありますし、改善しなければいけないと思うところも多々あります。その時に矛盾を切り捨てるのではなく、矛盾を受け入れどの様にハンドリングをしていくのか?を考えなくていけないと思います。言葉では表現が難しいのですが、単に「おかしい」「間違っている」と叫ぶだけじゃなく、矛盾を受け入れてその上で、どの様な道があるのか?を議論する様な環境が生まれたら良いのにと希望します。







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