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自由である事

永遠のテーマではあるが、人間がこの世に生まれた瞬間、誰もが自由の権利と責任を持っている。現実社会では、なかなか人間は自由でいるには、簡単な環境ではなさそうです。

例えば性的な事柄、同性結婚も同性恋愛も、本来は個人の自由なんですから個人の責任で自由に選択できるし、自由に生きてなんら問題がないはずなのですが、国家という集団がそれを許さない、宗教という集団がそれを許さない、保守的な倫理の大きなパワーがそれを押しつぶしていく。

例えば、自由恋愛、性的コンテンツの仕事、今でも社会は「これは良い、これはダメ」と個人の自由意志を無視して排除に走る。

人間は誰もが、保守的な部分と革新的部分、攻撃的部分や防衛的部分、開放的部分、閉鎖的部分、などと相反した側面を同時に持ち得ている。
故に、誰かを愛すると言う事は、誰かを嫌うことになる。誰かを守るってことは、誰かを攻撃する事に繋がっていく。

その為、個々の主観を土台とした場合、その集団には軋轢などが生まれ易い。故に人間はルールというものを作り出し、時にマナーと呼んだり、時に法と呼んだり、様々な規定を作り、そこからはみ出る事を禁じるわけです。秩序維持を主とする目的の方が優先され、個人の自由は我慢を強いられているわけです。そして集団が大きくなればなるほど、その規律が窮屈だと騒ぐ人数も並行して増えて行くわけです。更に時代と言う風が吹き始めたら、その不満の声が更に大きくなっていく。まさに現代はそのタイミングになっている。

結局、人間が何らかの集団に属する場合、どこかである程度の自己自由を我慢して、その集団のルールと言うものへ忖度を図りながら生きる事になる。
この忖度の様なものが全くない世界は、およそ人間である以上無理な話となるでしょう。小ささ単位の集団、家族ですら各家庭の常識があり、各家庭の暗黙の忖度が発生している訳ですから。なので程度の問題で、どこまでが自分として我慢できるか?どこまでが許容できるか?それだけの事だと思う。

今世界中の色んな集団の中で、個々の自由と言ったものが叫ばれている。自由だ自由だと、バカの一つ覚えのように騒いでいるが、騒いでいる大半の人間は、自由の土台である責任を忘れている。まず一つはそこをもう一度再認識してもらえるような環境整備をした方が良いと思う。

もう一つは、個人がその属している集団から抜けることができる、選択の自由の確保だと思う。世界的に保守が正しとか、革新が良いとか、お互いの主張の正当化ばかり叫んでいるが、共に正解であり共に正義なんですから、延々と水掛け論になるだけです。そんな議論や圧力で押さえつけるような活動よりも、個々が好きな環境、生き易い集団と言ったものを自由に気軽に選択し、移動しながら生きていける環境を整備したほうが良いといつも思う。

日本には日本の正義、アメリカにはアメリカの正義、中国には中国の、北朝鮮、ロシア、シリア、トルコ、英国、ウクライナ、などどんな国にも、それぞれの正義が存在しているし、どれが正解という話ではない。それぞれに良し悪しが存在し、それぞれに複雑な問題を起こす起爆剤も眠っている。いい加減、日本が正いだアメリカが正しいだ、などと言う排他的な思考はやめたほうが良いと思う。
他人を批判する前に、自分たちの選択の自由を確保したほうが全然良いと思うし、その選択の自由が簡単に行使できる環境づくりを早く着手すべきと思う。

これに着手しようとすれば経済の問題が絡んでくる。お金です。
これに着手しようとすれば、土着と言う人間の本能が絡んできます。
これに着手しようとすれば、様々な方面での問題が起き上がってくる。
既存のルールを見直し、選択の自由と責任を行使し易い環境を目指すことが重要だと思う。非常に難しい問題ではあるが、一つ一つ改善を図って人々が自由に移動し、自由に好きな意思で生きられる様な環境整備を、どんなに時間をかけても着手しないといけない様な気がします。難しいから、面倒だから、非現実的だから、と手付かずに今に至っているので、人間社会は何千年も同様の問題を抱えたまま、社会、集団と言った乗り物を運転している。

いつか世界全体の環境整備に着手する時は来るのだろうか?
いつの日か、人間は個人の自由と責任、社会、集団の維持安全と変革、人類の歴史の継続と変革、などと言うものの調和を、より上手に図れる様になるんだろうか、、。

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