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【感想文】文鳥/夏目漱石

『あるときないとき』

大阪出身の人にとって、551の「あるとき」と「ないとき」では気分が全然ちがうらしい。これは何だってそう。本書『文鳥』にしてもそう。

そこで今回は、作中後半の「三重吉スルーのくだり」が「あるとき」と「ないとき」における作品全体の印象をそれぞれ説明する。

▼「三重吉スルーのくだり」とは:

文鳥(※1)が死んだ後、主人公が三重吉に <<家人うちのものが餌をやらないものだから、文鳥はとうとう死んでしまった。たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌をやる義務さえ尽くさないのは残酷の至りだ」>> と手紙を書いて送ったら、三重吉からの返事は <<文鳥は可愛想な事を致しましたとあるばかりで家人のものが悪いとも残酷だともいっこう書いてなかった>> という。つまり、主人公の釈明は三重吉にスルーされたのである。この、三重吉スルーの描写が「あるとき」と「ないとき」で本書の印象は大きく異なる。

※1・・・文鳥は、主人公がかつて恋慕った女性の象徴である。この女性は国文学者の見解によると、漱石の兄嫁「登世」あるいは、養父の愛人の連れ子「れん」といった二派があるというが、ただ、いずれも漱石が恋慕った女性であることには変わらない。なお、両者は本書執筆時点でこの世におらずいずれも早世であった。

▼スルーがあるとき:

「文鳥=意中の女」という前提を踏まえると、主人公の手紙の意図は表面上は「文鳥を死なせたのは俺じゃない」だが、三重吉がスルーしたことで自戒の意が強調される。つまり、主人公の本心に「文鳥を死なせたのは俺じゃない、いや、やっぱり悪いのは俺かも……」という内心が徐々に浮かび上がり、文鳥の死は単なるペットの死ではないことが分かる。ただ、その後、主人公が改心したのかどうかは作中に描かれていない。

▼スルーがないとき:

三重吉スルーのくだりがごっそりないとき──例えば、三重吉が「あなたのおっしゃる通り、文鳥が死んだのは家人のせいですね。心中お察しします」的な返事を書いたとしたら主人公の人間性が疑われ、読者にしてみれば、「文鳥=意中の女」ではなかったのか、コイツただのサイコ野郎やんけ、的な後味の悪い小説になるであろう。ただし、主人公は「文鳥を死なせたのは俺じゃない」に三重吉が同調して欲しい気持ちも多少はあったようにも思う。しかし、作中では「あるとき」が採用されている。

このように、「あるとき」と「ないとき」を比較したとき、両方に共通するのは手紙を通じた主人公の自己弁護であるものの、「ないとき」は主人公の性格の悪さがただただ強調されるだけである。一方で「あるとき」は、性格が悪いことには変わりはないが、主人公の複雑な心境が表現されており、この心境は※1の経緯を踏まえると主人公だけでなく作者自身がモラリストであろうと望んでいる様にも思えてくる(実際に漱石がモラリストだったかどうかは不明)。

といったことを考えながら、私が大阪に行った際、551蓬莱でよく注文するのは豚まんではなくチマキです。

以上

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