見出し画像

【感想文】私は海をだきしめていたい/坂口安吾

『ぴえんヶ丘どすこい之助』

さっきコンビニに行ったら数名の女子高生が店先でタムロしていたので、本書『私は海をだきしめていたい』を読ませたところ、読後、彼女達は口を揃えて「ぴえんヶ丘どすこい之助じゃん」と感想を語った。なお、私の感想は過去に提出した『青鬼の褌を洗う女』の感想文と全く同じです。
[感想文・完]

▼備考 (本書における「海」と『堕落論』の相似について)

 ※凡例:<<>> は課題図書からの引用。【】は堕落論からの引用。

本書も他作品と同様に『堕落論』が大いに適用されている。まず、後半部分における「私」は、「女」の肉体を飲み込む程に大きな「海」の肉体に対し、女の不感症をはるかに超える無慈悲および無感動を見出し、さらに、その「海」なる肉体を「私」自らで抱きしめたいのだというが、こうした点からして、著者が『堕落論』で語る【偉大な破壊の愛情】が「海」という <<壮大なたわむれ>> に象徴されている。ただ、著者が【あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。】と語っているように、海を抱きしめる行為は「私」の <<やりきれない虚しさ>> という日常を満足させることはできるが、それは一時しのぎでしかない。そのため、物語終了時点における「私」は、当初から堕落傾向にはあるものの、女以上に「海」に対して <<私自身のふるさとを見出した>> 程度にとどまっているものと思われる。また、海に飲まれる「女」の姿を見た「私」が <<その一瞬の幻覚のあまりの美しさに、さめやらぬ思いであった>> とあるが、これと同様に著者は【偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影】と語っている。このことから、本書の「海」なるものには「偉大な破壊」「人間の美しさ」「一時の幻影」が意図されていると思われ、そうした『堕落論』に準拠したであろう本書の印象は他作品と同様、やはり「虚しさ」だけである。

といったことを考えながら、当初から堕落傾向にある「私」が今後、完全に堕落して本来の自分に立ち返ることができるのか、それについては私の能力不足により本書からは読み取れなかったが『堕落論』にはバッチリ書いてあったので興味のある方はご一読下さい。

以上

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?