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【感想文】外套と青空/坂口安吾

『君、手抜きはやめなさい』

本書『外套がいとうと青空』の首尾に関して申し上げると、太平は純情⇔肉欲の二律背反に苦悩、キミ子は肉欲それ自体に終始、そして両者の別離によって太平の精神は破壊から再生へ岐路を迎え、これが物語の顛末となる。
とすれば、本書の二者が同著者作『白痴』における「伊沢」「オサヨ」に類似しているのは説明を待たずして明白であるからして、過去に掲載した「白痴」の読書感想文中の「伊沢」→「太平」、「オサヨ」→「キミ子」と人名を変換することをもって、今回の『外套と青空』読書感想文に代えさせて頂くことにする【完】


といったことを考えながら、もう少しだけ雑感を述べるとすれば、本書末文における、

冬の夜更けの外套と青空の下の情熱はさすがに見当らない。あの外套とあの青空がなければ ——

という表記を軸とした太平の内面についてである。
上記はキミ子に対し純情なる精神を見出そうとしたとも受け取れるが、これは太平自身の純情(という理想型)を「外套」および「青空」に投影しただけに過ぎず、結果、キミ子が去った徒労の果てに残ったのは、本文中の言葉を借りれば <<あさましく嗅ぎめぐる自分の姿>>、つまり、現実のみであったといえる。
この点は、既に作中後半においても、<<死に得ぬことのあさましさと肉慾の暗さに絶望>> した彼に生ある限り続く<<妄執もうしゅう>> であると太平自身も自覚しているものの、一向に捨てきれない「業」の様なものとして扱われている。
ここから発展したのが「キミ子の人形」という <<理智よりも肉体の情慾じょうよくばかり>> の物体が外套・青空(=太平の理想)から切り離され鎮座しているその姿であり、それは太平にとって圧倒的な現実であったに違いなく、ここで、この結果をネガティブに捉えるか否かについては同著者作『堕落論』に詳しい。
それはさておき、こうした観点で本書を振り返って思うのは同著者作『白痴』における主題も同様に適用可能という類似であり、現実を前にした主人公の破壊と再生が共通しているからして、過去に掲載した「白痴」の読書感想文中の「伊沢」→「太平」、「オサヨ」→「キミ子」に人名を変換することをもって、今回の『外套と青空』読書感想文に代えさせて頂くことにする【完】


といったことを考えながら、もう少しだけ雑感を述べるとすれば、(以下、好きなだけ繰り返す)

以上

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