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コロナ禍で変わる「ばえる」概念

美術館に「ばえる」という概念は何をもたらしているのか。オンラインメディアに造詣が深いキュレーターの四方幸子氏(キュレーター、批評家/多摩美術大学・東京造形大学客員教授)に聞いた。

本記事は、多摩美術大学芸術学科フィールドワーク設計ゼミが発行しているアート誌『Whooops!』Vol.29(2021年10月21日発行予定)P.10に掲載される同タイトルの記事のフルヴァージョンです。Whooops!誌からの問いに対して四方氏が答えるQA形式で記事を構成しております。

はじめに

 2010年代半ばから、美術館の空間や展覧会の作品や空間をスマホで撮影し、時には瞬時にSNSで発信することが常態化した。とりわけ2018年前後には、とある展覧会で、空間にいる全ての人がスマホを構えている光景を見ることさえあった。また撮影に気を取られ、作品を破損してしまうケースも出ていた。
 2020年以降、新型コロナウイルスによる感染症の流行が、そのような状況に一つの切断を差し込んだ。美術館の一時休館や展覧会の中止が相次ぎ、再開後は安全のため入場数制限、予約制の導入、検温・消毒・マスク着用の徹底やオンラインビューイングも増加した。そのような変化に応じて、撮影する場合も作品とじっくり向き合う鑑賞者が増えたように思う。
 「ばえる美術」がテーマと聞いた時、このような大きな変化とともに懐かしいイメージさえ帯びていた(と思っていた)「ばえる」が若い世代で定着していると知った。とともにこの言葉の意味が、かつて目立ったセルフィーに代表される自己や新奇性の誇示から、むしろ個人個人の日常とアートをつなぐ精神の拠り所や文化的基盤となりつつあるのでは、と感じた。

■コロナ禍前の時代において

・今まで、撮影可能な展示をキュレーションしたことはありますか。また、その展示がどういった展示だったのか教えていただきたいです。複数ある場合は、可能であれば最も写真撮影をしている人が多かった印象の展示について教えていただきたいです。
・撮影可能にすることで、どのような効果が生まれましたか。

 ある。これまで屋内外の公共的空間でのメディアアートや現代美術の展示やプロジェクトを多く手がけてきたが、とりわけ2010年以降に増加した。たとえば『札幌国際芸術祭2014』(札幌駅前通地下歩行空間チ・カ・ホや札幌市資料館他)、『メディアアートフェスティバルAMIT(Art, Media and I, Tokyo)2014-2017』(主会場:東京・丸ビル内マルキューブ)など。特に『茨城県北芸術祭2016』では、SNSによる拡散を広報的に歓迎する機運があった。
 『茨城県北芸術祭』で特に話題をさらったのは、旧体育館の広い空間に敷き詰めた白い砂の上に広がるおびただしい数の繊細な植物のシルエットが美しい、ザドック・ベン=デイヴィッドのインスタレーション《ブラックフィールド》(常陸大宮市・旧家和楽青少年の家)である。中に入れないため、周囲を回ったり座ったりして、さまざまなアングルからゆっくり鑑賞してもらえた。SNSで拡散され、実際見たいと多くの方が訪れた。

■コロナ禍前後で変わらないもの

・作品を写真に撮ることはありますか。また、その理由を教えてください。

 ある。基本的に、興味がある作品や展覧会を後ほど確認・検証するのが目的。SNSなどでシェアする場合は、感動した、あるいは、重要だと思った作品を広く知ってほしい、実際見られなかった人に見てもらえればと、簡単ではあるがテキストを添えてTwitter、Facebookに投稿する。

・作品を撮ることは、鑑賞すると言えると思いますか。また、その理由を教えてください。

 実空間で鑑賞者が実物の作品と出会うことは、一期一会、唯一無二の機会としてある。異なる距離やアングルから作品を見て、作品と一種親密なコミュニケーションを結ぶ、という体験はかけがえのないものだと思う。
 作品を気軽にキャプチャすることでデータベースとして所有し、SNSで発信することは、画像が不特定多数の人々に消費されていくことであり、鑑賞とは言えないのではないか。と同時に各人に届く膨大な画像にそれらが組み込まれることで、アルゴリズムによる自動的な連結も含め、異なる文脈の画像が新たな意味を生成するなど、既存の美術鑑賞とは異なるレベルでの体験が可能になっている。

・インスタレーション作品が、写真に撮られることをどう思いますか。

 空間全体が作品といえるので、写真1点では収まらない。鑑賞者が自由に動くことで可能になる、多様な見え方を複数撮影することが一つのあり方といえるだろう。
 それはインスタレーションの記録でありながら、むしろそれを素材とした、体験する側の知覚や感受性、動きの軌跡であり記録となっている。より踏み込んだ新たな可能性として、それぞれが撮影した写真をシェアすることで、ボトムアップ的な記憶の断片から動的に生まれうる群や集合体としての「インスタレーション」をデータとして浮上させることができるのではないだろうか。

■コロナ禍以後の時代において。

・作品や展覧会を「ばえる」という見方で鑑賞することについて、どう思いますか。

 コロナ禍以前の時代における「ばえる」はセルフィーに代表される鑑賞者が主体だったと思うが、現在においては、作品や展覧会の空間やそれらとの関係性へと重心が移行しているように感じている。

・今後、「ばえる」という概念が、美術鑑賞や美術の捉え方にどう影響すると考えますか。
・「ばえる」という考えに対して、美術の中ではどう付き合っていくべきだと考えますか。

 コロナ禍以前には、スマホの普及、SNSの隆盛、そして国内各地に広がった芸術祭を含めたアートへの注目が、一種のハイプを生み出していた。美術館や芸術祭もそれに乗じて、SNSへの依存や来場者数・収益増を目指すだけでなく、時には「ばえ」を意識した作品や展覧会の開催などが加速し始め、そのことに問題を感じていた。作品を尊重したり作品と向き合う思索的な時間や空間が、商業主義や大衆迎合的な風潮に押し流されていたからだ。
 コロナ禍以降、展覧会の成果を判断する基準も、入場者など数字だけに依存するのではなく、長い目で見た文化の醸成へと向き始めた。アートや展覧会の、人々や社会における本来の意義が理解されうる時代になってきたように思う。
 「ばえる」がコロナ禍前後で変化してきたのでは、と前述したが、「ばえる」からの影響については、現時点で何も言えない。ただ「ばえる」も含まれる、未来の創造的可能性について述べておきたい。
 撮影するという各人の能動的な世界のフレーミングやフィルタリング、保存・共有によるデータベース化や改変可能性は、キャプチャした画像や作品をリソースとして新たな創造を生み出しうる可能性を開いている。ただそのためには、惰性的に撮影するのではなく、自らインスピレーションを稼働させ、創造物や作品を派生的させていく、これまでにないアートへのまなざしが必要である。
 「ばえる」に関わらず、現在の状況は、作品が個人の表現や完結したものから解放され、人々に共有され、誰もが新たな創造を生み出しうる「コモンズ」としてのデータとなりうることを意味している。その可能性を人々が自覚していくことで、ヨーゼフ・ボイスがかつて述べた「人は誰もが芸術家である」、つまり日常を創造的に生きていく社会がデジタル・ネットワークを介して訪れうるのではないだろうか。

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四方幸子(しかた・ゆきこ)
キュレーター、批評家。多摩美術大学・東京造形大学客員教授、IAMAS・武蔵野美術大学非常勤講師。「情報の流れ」から諸領域を横断する活動を展開。1990〜2000年代はキヤノン・アートラボ~森美術館~NTT ICC(キュレーター)と並行し、フリーで先進的な展覧会やプロジェクトを実現。最近の仕事に美術評論家連盟2020年度シンポジウム「文化/ 地殻 / 変動 訪れつつある世界とその後に来る芸術」、オンラインフェスMMFS2020、山川冬樹「DOMBRA」(東京港海上、2020)、フォーラム「想像力としての<資本>」(京都府、2021)など。
yukikoshikata.com

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【タマガとは】
多摩美術大学芸術学科フィールドワーク設計ゼミが発行しているウェブマガジン(編集長:小川敦生同学科教授)です。芸術関連のニュース、展覧会評、書評、美術館探訪記、美術家のインタビューなどアートにかかわるさまざまな記事を掲載します。


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