「具体例」 国語教室1

生徒さんの質問に「具体例は読み飛ばしていいですか」というのがたまにあります。ダメに決まってますよね。筆者は必要だと思って書いているのですから。

「時間が足りないから読み飛ばしたいです」とか、「読みとばしてもいいと習いました」とか、生徒的にはいろいろな理由があるみたいなんですが、結論をいうと、「やっぱりダメなものはダメです!」(きっぱり)

入試現代文という狭い範囲だけで考えても、具体例を使った設問は思った以上に多いので、読み飛ばすことを前提にする勉強の仕方はそもそもまちがっています。
たしかに、具体例なんか読みとばしてもいっこうにかまわない文章は存在します。しかし、それは読んだ後にわかることであって、読む前から読み飛ばしをしていいかどうか、そんな判断は普通はできない。千里眼の持ち主でもないかぎりはね。
大学入試本番の当日、どうしても時間が足りなくて、ぎりぎりの選択で具体例を読みとばす、というのは正直アリかもしれません。でも、4月や5月にそういう安易な勉強をしてはならない。

ちょっと受験勉強の話をしてしまいましたが、視野を広げて社会全体を眺めても、「文章を読んで理解する」「人の話を聞いて理解する」というのは生きていく上でとても重要なことです。
とくに今のようなコロナの時代は、正しい情報の入手だけでなく、その情報を正しく理解するということも必要です。
そういう「理解の手がかり」こそが、具体例だったりすることも少なくありません。

ということで、今日は「なぜ具体例が必要なのか」考えてみましょう。


毎度おなじみの「不要不急」

さて、毎度おなじみの「不要不急」です。
BC(Before Corona)の時代にはまったくどうでもいい四字熟語でしたが、「コロナ史」に詳しい現在の君たちなら、その重要性をよーく知っているはずです。
(詳しくなくてもきっと知ってますよね。というかそもそも「コロナ史」などという学問ジャンルはないので安心してよろしい)

さて、ここでおさらいをしましょう。

『真説コロナ帝国の野望』によると(そんな本はない)、「不要不急」という四字熟語が現代史の地平に忽然と姿をあらわしたのは、2020年2月末のことであります。鈴木直道北海道知事が超法規的に緊急事態宣言をし、「不要不急の外出はお控えください」と要請したアレですね。

今では「不要不急でない外出」というのがどういうものか皆わかっていますが、この要請を初めて聞いたときは、「不要不急ってどういうこと?」と考えた人も多かったと思います。
「不要不急」とか「不要不急でない」という表現は抽象度が高いので、人によっていろいろな解釈が成り立ちます。
ピアノ教室の先生なら、年に一度のピアノの発表会は、生徒にとっても自分にとっても「絶対に必要」と考えるかもしれません。
新しく店をオープンした人は、ビラ配りで店のことを知ってもらうのが「絶対に急務」と思うかもしれません。
「不要不急」というだけだと、具体的な中身がないので、行動の指針としてはよくわからないし、解釈の仕方によっては大きなばらつきが出てしまいます。

ただ、実際には、翌日の記者会見で鈴木知事は具体例を用いて説明しました。

「食料を買ったり、薬を取りに病院に行く。これは命に関わることなので大丈夫です。でもそれ以外の命に関わらないような外出はお控えください」

抽象具体.001

まとめましょう。
抽象的な表現は、人によって解釈の仕方に幅ができてしまう。
それを避けるために具体例を用いて説明すると、自分の意図が相手に伝わりやすくなる。
つまり、抽象度の高い本文(たとえば科学哲学とか)のなかに具体例が出てきた場合、その具体例は本文を理解する美味しいヒントになることがしばしばある、というわけです。
具体例は読み手に「理解してもらう」ためのものですから。

三つの「密」とお花見

さて、鈴木知事に登場していただいたからには、小池百合子東京都知事にも登場していただきましょう。

『新々訳コロナ帝国衰亡史』によると(そんな本はない)、2020年3月20日からの3連休が終わった後で、小池知事からの自粛要請が発表されました。
主旨は鈴木知事の要請とほぼ同じ。
ただし、具体例の内容が違ったこと、「3密を避ける」というインパクトのある表現を使っていたこと、その二つが印象的でした。

抽象具体.002

「不要不急の外出とは実際にはどういうものですか?」という記者からの質問に対して、「たとえばお花見はダメです」という返答だったのですね。

しかし、このとき、「えっ?」という雰囲気もあった。なぜかというと、「お花見」は「三つの密」ではないからです。
その証拠に、小池知事の「お花見自粛してね発言」がなされたあとも、お花見スポットに大勢繰り出している都民の姿は全国版のニュースでもずいぶん流れていました。

でも、実はこの小池知事の具体例は悪くない具体例でした。というより、大変正しい具体例だったと言えると思います。
他県から上野公園にお花見に出かけた人が、自分の県に戻って発症した例が後日報道されたことでも、それは明らかです。

では、なぜこのようなミスマッチ、小池知事(伝える側)が適切な例を出しているのに、一部のお花見の人(伝えてもらう側)がそれを受け止めそこなうという事態になったのか?

その一番の理由は、両者の頭の中にあったものが違ったから、ということになると思います。

名称未設定.002

コミュニケーションというのは、伝える側の努力と、伝えてもらう側の努力と、双方の努力、カッコよくいえば双方向の努力が必要になります。

たとえば上図のお花見ネコさんが、三つの「密」を避けるべき理由を、もうちょっと考えてみたら、小池知事の意図がわかったかもしれません。

三つの「密」を避けなければならないのはなぜか? それはもちろんクラスターを作らないためです。
避けたからといって個人が絶対に感染しないという保証はありません。

クラスターができるということは集団感染が発生するということです。
日本国内でも現在(2020年5月時点)、50人規模のクラスターがいくつか発生しています。いったんは鎮静化した韓国でも、100人を軽く超える規模のクラブ関係クラスターが発生していますね。

鈴木知事にしろ小池知事にしろ、もちろん個人の生活はおありでしょうが、基本的には公務についているので、モノを考えるときは社会単位、つまり自分の預かっている自治体とか、日本全体が常に視野にあるはずです。
感染が拡大して制御できなくなっては「社会として」困るので、だからクラスターを作らないようなお願いをするわけですね。

ただ、上図のお花見ネコさんは、「クラスターが発生すること」と「個人が感染すること」を混同してしまっているわけです。
その原因の一つは、会見をきちんと聞いていない、会見のごく一部だけ切り取って聞いているので十分理解できていない。
受験現代文風にいうと、「全体の文脈のなかで傍線部を理解しようとしていない」という言い方になるかと思います。

まとめ

文章の中には、抽象論のみで押し通すというものもありますし、それはそれでいいと思います。

具体例のみで押し通す、というのも、それはそれでアリだと思います。

抽象部と具体部がつねにペアになっていなければならない、なーんてルールは無いわけですし、抽象論がいいか具体例がいいか、なーんて対立構造があるわけでもありません。

しかし、それでも、人に何かを伝えたいとき、抽象部と具体部をうまく組み合わせれば、より適切に相手に自分の意図を伝えやすくなることもある、というのは事実です。

具体例はなぜ必要か?

それは、使い方によってはとても役に立つものだからです。
だからこそ、受験では具体例を使った作題もなされるというわけです。



付記:
この種の国語教室は、今後また違うテーマで書いていきたいなーと思っています。
ただ、あまり頻繁には更新できないと思います。
すらすら読める文章を書く人が、すらすら書いているとはかぎらない。
はっきりいって、私は書くのが遅いですw
本の紹介はノリと勢いで書くことができるのですが、書いていて悲しくなるほど、この原稿を書くには時間がかかりました。
それと、こちらでの活動はあくまでボランティアのノリなので、自分の書きたいものを書くというスタンスにもなります。
ですから、本の紹介ほど頻繁には、この「国語教室」は増えないと思います。
そんなんでも構わないよー、という人は、また読みにきてください。





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