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アジュガの小径

雨はしばらく止まないそうだ。

今朝の天気予報、作り物みたいな笑顔を浮かべた美人のキャスターが、蛍光灯みたいな声でそんな事を言っていた。

幸い今日は仕事も休みだし、家でゴロゴロ過ごそうかとも考えていたのだが、生憎食糧の備蓄が尽きている。
私は仕方なく、近くのコンビニに行くことにした。最寄りのスーパーはもっと先、小雨と大雨を繰り返す今日の天候からして、賭けに出るのは些か分が悪い。そう踏んでの事だ。

幸いにも雨は小雨のままであったし、ちょうど補充されたばかりの棚には最近ハマっているおかずがたっぷりと陳列されていた。それは良くある、憂鬱と幸運の入り乱れる平凡な1日になると思っていたのだが。


それは、帰路に待っていた。


コンビニから僕の家までのルートは3つある。
最短経路だが人通りと信号の多いルート。やや遠回りだが、人通りが少なく晴れた日に歩くと気持ちの良い河川敷が広がるルート。
コンビニへの往路は最短ルートを通ったが、傘を差して走行する自転車にぶつかりそうになったり、側を通過していった車が雨水を跳ね上げていき、危うくずぶ濡れになりかけた。だから復路は3番目のルートを選んだ。
住宅地の間をすり抜けていくような遊歩道。車どころかバイクの侵入も拒むような狭さであり、路面は凹凸の多い石造り。
地元民以外はその存在を知らず、歩行者しか通らない小さな抜け道だ。



そこに彼女はいた。

それはちょこんと、まるでポカポカ陽気の昼下がりに日向ぼっこをする様に。

と言っても別に寝転がってる訳では無い。遊歩道の途中にある屋根付きのベンチに座り、ピンと伸びた背筋でごくごく自然に座っている。

立てば芍薬座れば牡丹と言うが、彼女の佇まいは座ったままの芍薬といった雰囲気だ。

しかし目を惹いたのはそこでは無い。
たしかにこんな雨の日にベンチに座っているのは珍しかったが、その程度の事、気にも留めないだろう。
私の目を惹いたのは彼女の服装だった。
ヒラヒラとしたフリルが何重にも重なり合い、膨れ上がったスカートは、なるほど牡丹のように見えなくも無い。
いわゆる『ロリータファッション』というヤツなのであろうが、その手のファッションではあまり見かけない藤紫のロリータである。

私は思わずまじまじと、彼女の足先から頭のてっぺんまで観察してしまった。

個性派極まる洋装の割に顔は純日本美人と言った面持ちで、セミロングの黒髪の異様な艶やかさ故に、洋装の和人形のような印象を受ける。
歳の頃はどのくらいだろうか。
顔立ちからして二十歳前後に見えるが、良家のお嬢様然とした姿勢の美しさのせいで、旧家の老婦人のような雰囲気を漂わせている。
少女のコケティッシュさと老成した美の中間地点。不思議な雰囲気の彼女の目が、私の姿を真中に捉えた。

「あら」

彼女は微かに微笑んで、その細い小首をしゃなりと傾ける。

「ご機嫌よう、お兄さん。良い天気ですね」

私は立ち尽くしていた。
彼女の目の前を通り過ぎながら凝視していたはずの私の身体は、彼女の手前で呆けたように立ち止まっている。
そんな私の動揺をどう捉えたのか、彼女はクスクスと小さな笑い声を上げている。
すると彼女はお尻を少し浮かせてベンチの真ん中から端へと座り直し、促すようにベンチの板をぽんぽんと叩いた。

「どうぞお座りください。私、今日は機嫌が良いの」

理由にもならない理由を述べて、彼女は低い位置から私に微笑んだ。和人形のような顔つきの割に大きな口が、三日月状に大きくたわむ。

私はその誘いを断ろうとした。しかし、気づけば吸い込まれるように彼女の隣へ腰を下ろし、目の前で弾ける雨粒等を眺めている。

「ご近所の方かしら、お見かけした事は無いのだけれど」

確かにここに引っ越して来たのは少し前だが、それはこちらの台詞だった。
まさかご近所にこんな癖の強い人物が住んでいようとは夢にも思わない。
私はこの先のアパートに住んでいる事を告げると、彼女は私の住むアパートの名前をピタリと言い当てた。
驚く私の顔を見た彼女は
「私、この辺の事には詳しいので」
と薄い胸を張るようにして誇らしげな顔を作る。もはや詳しいという次元ではないのだが、私はそれを深くは追求せずに、無難な話題を彼女に振った。

「雨、止みませんね」
「ええ、良いお天気です」

彼女はうっとりとした表情で屋根から滴る雫を眺める。変わった人だ。服装、雰囲気だけでなく、雨が好きだなんて。

「お好きなんですか?雨」

彼女は恍惚とした表情のまま、「ええ」とだけ答える。少しだけ間が空いてから「ずっとこうしていたいほど」と言う彼女の顔に嘘は無さそうに思える。

「変わってますね」

私の正直な感想に彼女は目を丸くして、意外といった顔をする。

「お嫌いなんですか?」
「ええ、まあ……」

雨が好き、と言う人なんているにはいるのだろうが少数派だろう。そこまで意外そうな顔をされる覚えは無いのだが。

「そうですか……こんなに、麗しいのに」

彼女が露骨に残念がるので、まるで私の方がおかしいように思えてしまう。
ふと気づいたのだが、彼女のそばに傘が無い。
バッグの中に折り畳み傘があるのかとも思ったが、そもそもバッグも見当たらない。完全な手ぶらである。
「あの」と口にする私の目を見て、彼女はまた小首を傾げる。

「いつからここに?」

「はい?あ、えー……っと、かれこれ……」

彼女は右手の人差し指と、左手の中指人差し指を立てて私に微笑んだ。

「12世紀ほど」

悪戯な顔で彼女が笑う。
その馬鹿馬鹿しい冗談に私は呆れ返ったが、ツッコむのもめんどくさいと思い、その話に乗っかることにした。

「はあ〜……それはそれは……お尻に根が生えて巨木になりそうですね」

「まぁ!お尻だなんて」

彼女が仮にお嬢様育ちだとしても、慣用句までセクハラ扱いされるのは困ってしまう。
話を逸らすべく、私は会話を続ける事にした。

「お洋服、素敵ですね。なんていうか、個性的で」

心にも無いお世辞を口にしてみるが、本音が少し混じる。
しかし彼女は満面の笑みでそれを受け止め、跳ね回るような声で「分かっていただけます!?」と叫んだ。意外と声が大きい。

「良かったー、分かってくださる方がいて……先ほどから通る方通る方、みーんな気づかず通り過ぎていかれて、ちょっと自信を失くしかけていたところなんです」

こんな服装の人を果たして気づかずにいられるだろうか。それはどちらかと言えば目を合わせたくなかったからでは無いだろうかと思ったが、黙っておく事にする。
どう考えても、こんな日に屋外で黄昏れるロリータ少女の方が異常なのだから。

「一重、咲きました」

彼女は呟くようにそう言った。

「いつからここに座ってるんですか?」

「ずっと、ですね。雨が降ってから、ずっと」

私の記憶では昨日の明け方から降り続いていたと思うのだが、先ほどとはまた違う非現実的発言に眉をひそめる。
「はぁ」と気の抜けた声を出す私をよそに、彼女はなおも続けて話す。

「雨が降ると時を感じる事が出来るんです。それは空から出でてやがて集まり、大河となって流れていく。人の世もまた、そんな風に過ぎて行きますから」

彼女の口ぶりは歴史の傍観者めいていて、詩的というよりも哲学的にさえ思える。重ね重ね不思議な人だ。

「時は流れていくものですしね」

「いいえ、時は積み重なるものですわ。ここに、そこに、貴方に」

いよいよもって哲学的だ。スピリチュアルとも言える。

「失礼ですが、想い人などはいらっしゃいますか?」

彼女は問う。私の目を見て真っ直ぐと。

「一応、いますが」

嘘はついていないが、それは叶わぬ夢である。
その人は既に、他人のものなのだ。

「まあ、素敵ですわ。ロマンスですわ」

彼女はキラキラと艶めく笑顔を光らせて、足をパタパタ踏み鳴らす。子供のようなその仕草に、ますます彼女の年齢が分からなくなった。

「私にも想い続けている人がおりまして、雨が降るたび、彼の人を思い出してしまうのです。だから、雨が好きなのです」

「どのくらい片想いされてるんですか?」

「かれこれ12世紀ほど」

またか。

「うふふ、でも良いのです。想い続けていれば、想いは永遠ですから。叶ってしまえば、永遠は失われます。私はこの想いが大好きなのですから」

恋に恋する乙女、という言葉があるが彼女はむしろ愛を愛しているようだ。
素敵な恋がしたいという願望ではなく、素晴らしい愛を持ち続けていたいという、そんな願望だ。

「ですから、私はこうして雨が降るたび、ここに想いを重ねているのです。十重に二十重に思いを重ね、八重咲きの大輪を咲かせる日を夢見て」

謡うように語る彼女は、どこか寂しげにも見える。本当に12世紀も想い続けているかは知らないが、その目は遠い遠い空を眺めているようだ。目の前は民家の壁だというのに。

「貴方が私に気づいてくれたのも、貴方が彼の人に似ているからかも知れません。いつもぼんやりしていて、日頃の退屈をどこか他人のせいにしていて、恨めしそうな顔を曇天に刻みつけているような、そんなお顔です」

話の初めは新手の逆ナンかと思ったが、後半からして違うらしい。互いに初対面だというのにこの口ぶり。深窓の令嬢、世間知らずのお嬢様と言い張るには無理があるほどの不躾である。

「そんな顔、してますか」

「ええ、それはもう、バッチリ」

彼女の顔は得意気だ。

「彼の人も、そんなお方でした。私はそのお顔を見るのが大好きで、雨が降るたびその方の元へと通ったほどに」
「彼の人は既に妻を娶り、子も何人かいらっしゃいました。そしてそのうちの1人が私を捕まえ、その方に引き合わせてくれたのです。私はその時初めて、その方のお顔を間近で見る事が出来ました」

老婆の思い出話のように、滔々と、ぽつぽつと、彼女の語りは続いていく。
それにまるで歩調を合わせるようにして、雨足は徐々に強くなっていく。

「そのお顔は遠くから見るよりずっと凛々しくて、儚げで。私はもう舞い上がってしまいました。ふふふ、そしたらその方、なんて仰ったと思いますか?」

私の顔を覗き込むようにして、彼女が笑う。
その時眩い稲光が大粒の雨を呼んできた。滝の中に放り込まれたような轟音とひやりと冷える空気の中で、彼女の笑顔だけがぱっと明るく輝いている。


「可愛い、ですって」


雷鳴がもう一度大きく鳴る。どこかに落ちたのかも知れない。
彼女はサッと顔を隠しまた足を踏み鳴らすが、足元まで迫っていた水溜りのせいで、その音はパシャパシャとした水音に変わっていた。

「ああ、いけませんわね。あの事を思い出してしまうと、つい顔が緩んでしまって。お恥ずかしい」

フリルだらけの大きな袖で口元を隠し、彼女は目線だけを私に向けてくる。くりくりとした黒目がちの目は、水を湛えて潤んでいる。

「あの…………不躾なお願いとは重々承知なのですが、その……」

彼女はおずおずと、私にひとつお願いをした。


「一度だけ『可愛い』と、言っていただけますか?」

雷光、雷鳴、豪雨の最中。
彼女は告白でもするかのように、真っ赤な顔でおかしなお願いを口にした。
私は呆気にとられてしばし硬直してしまったが、彼女の目は本気である。
何故、どうして初対面の女性に対してそんな事を言わねばならぬのかとも思うのだが、目の前の女性はまごうことなき美少女であった。
となれば男として、それを口にするのはやぶさかではない。
しかし、その前に一つ聞かねばならない事があった。

「あの、ちなみに、お名前は」

「はい?」

「いえ、あなたのお名前です。さすがにその一言だけっていうのもおかしい感じがしますし、まぁサービスの一環と思って、お名前もお呼びしようかと……」

口にしてから、これはナンパと思われても仕方がないと思ったが、既に遅い。
彼女は瞼を何度か開閉し、硬直したままだ。

「あ、いえ、すいません。調子に乗りました」

私はそう言って切り上げようとする。その瞬間、ベンチに置かれていた私の手の上に何かが触れた。小さくて、冷たくて、やたらめったら柔らかい少女の手のひらが、私の手の甲に乗せられてる。

「是非、是非お願いします」

それは力強い発言だった。
瞳の奥ではメラメラと桃色の炎が燃え盛り、頬の紅潮は極に達している。
私はそんな彼女に気圧されつつ、もう一度あの問いを口にした。

「あなたの、お名前は」

彼女は一呼吸置いてから、まるで貴重な銘品を飾る手つきのように、そっとその問いに答えた。

「河津、あきらと申します」

ガーリー過ぎるその服装とは違う中性的な名前であった。しかし不思議と、彼女には似合っていると感じる。
そのせいもあったのだろうか。私はするりと、堂々と、その言葉を口にする事が出来た。


「可愛いよ、あきら」


言った瞬間、全身の血流が燃え上がるように熱を持つ。
どうかしている。初対面の女性にこんな歯の浮くような台詞を吐いてしまえるだなんて、私は完全に正気を失っているとしか思えない。
しかし、正気を失っているのは私だけでないらしい。
見ず知らずの男から甘い言葉を吐かれた彼女は、ベンチに座ったまま身を縮めふるふると小刻みに震えて、喜んでいるのか怒っているのかさえ判別がつかない。
私がせめてそれを確かめようと「あの」と言った瞬間、突然彼女は飛び上がる。それはそれは高く、ベンチの屋根に頭を打ってしまうのではないかと思えるほどに。

「〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!………ぃぃぃぃやはー!!!!!」

そのまま彼女は豪雨の叩きつける遊歩道へと踊り出て、文字通り踊り出した。「うひょひょ」だか「きょほほほ」だかよく分からない奇声を発しながら信じられないほど舞い上がり、飛び回っている。
その跳躍力たるや目を見張るほど高く、分厚いソールも豪雨の激流もものともしないそのパワーに私は呆気に取られて固まってしまった。

「ちょ、ちょっと……河津さん!」

ようやく口にできた言葉はそれだけで、彼女に近づく事さえできないまま、私は彼女を制止しようと試みたが、彼女はひたすら踊り狂う。

「あきら、あきらですわ!あははは」

彼女はもはや止まれない。情動と肉体が連動しているかのように踊り、笑い、全身隈なく雨水を纏いながら、クルクルと回って跳ねて、その度に大粒の飛沫が花火みたいに舞い散った。

「あきらさん!濡れますよ!…………あきら!」

私が名前を呼んだからだろうか、彼女ピタリと動きをやめてこんどはクネクネと身体をよじって悶え始める。あの不気味な笑い声を上げたまま。

「くひひひひ……あきら……あきら………うへ、うへひょほへ……」

とりあえず踊るのはやめてくれたのだが、果たしてこれは効果があったと言えるのだろうか。彼女は未だ、雨の滝壺で笑い続けている。

私が彼女の動向を注視しているうちに、雨はどんどんその勢いを弱め、次第に小雨へと戻っていった。分厚い雲が薄くなり、わずかに世界は本来の光量を取り戻しつつある。
まるでそれに合わせるかのように彼女も平静を取り戻し、背筋をピンと伸ばしたまま、しとしと溢れる雨の雫を全身に滴らせている。

「ふぅ、お見苦しいところをお見せいたしました」

そう言って慇懃に頭を垂れるが、全くもってその通りであり、今更取り繕っても遅い気がする。
それでも私は、この不思議な少女に好感をもった。旧家の老婦人、深窓の令嬢然とした彼女よりも、先ほど見せた子供のような姿の方が、彼女の本質に近いと思ったからだ。
だから私は思った事をそのまま、彼女に伝えた。
面食らった事も事実だったが、しとどに濡れた今の姿が1番可愛らしいと。

「ほひっ!…………ふひゅひゅひゅ………」

既にお嬢様モードに入っている彼女は湧き上がるソレを抑えて、必死に取り繕うとしている。大きな口がモゾモゾと動き、まるでお嬢様の皮を必死に引き止めているようだ。

「お、おほん………さて、雨も上がりそうですし、私はこれで、失礼しますね」

ギリギリのところで淑やかさ守り切った彼女は、また深々と頭を下げて別れを告げる。雨水をたっぷりと吸った重たい黒髪の束が真下に垂れ下がり、雫がパタパタと彼女の足元を打った。

「また、お会いしましょう。雨の日に。暖かいうちに」

そんな風にいう彼女の顔はツヤツヤと煌めいて、まるで体中に粘液でもまぶしたかのように光り輝いている。
けれども私は、そんな事などどうでもいいように、ただ「もちろん」とだけ答える。
満足そうに微笑む彼女の口から、長い舌がちょろりとはみ出た。

「ふふふ、それでは、また」

私は遊歩道の向こうへと歩いていく彼女を見送って、自分もその場に立ち上がった。すると不意に目眩がして、その場にへたり込みそうになる。
私は何とか踏みとどまり、チカチカと明滅する視界の中から現実の現状を掴み取ろうと目を凝らす。

不思議な事に私は傘を差したまま、あの遊歩道に立っていた。まるで彼女と出会う前の時間に巻き戻ったように。
辺りを見渡すが彼女の姿はどこにもない。
その代わり先ほどまではそこに無かった、いいや、気づいていなかったのかも知れないが、遊歩道の両側に紫色の小さな花が所狭しと咲き乱れている。それは彼女のロリータにも似たような、美しい紫だった。

私は先ほどまで座っていたはずのベンチを見下ろす。
おかしなところは何も無い。ただ一つ、彼女が座っていた場所が、お尻の形に濡れていた事を除いては。


「やっぱり根が生えてたじゃないですか」


私は誰に言うでも無く呟いて、紫色の遊歩道を歩いていった。

どこか遠くで、蛙の声が鳴り響いている。



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