歌詞が好きな楽曲《ロック/ポップス編》
うっかり更新を忘れておりました。
さあ、今回は「歌詞が好きな楽曲《ロック/ポップス編》」ですよ。
小物使いがキラリと光る、孤独と絶望の北欧哀歌『No One There』
北欧はフィンランド出身のメタルバンド・Sentencedの傑作アルバム「The Cold White Light」のラストナンバー。
かつて《ノーザン・メランコリック・メタル》と呼ばれた彼ららしい、冷たく陰鬱で、それでいて心にすっと寄り添うキャッチーさも魅力的なこの曲。
僕はこの曲及びアルバムが大好きで、棺桶に入れて欲しいアルバムを10枚選びなさいと言われたら、ほぼ確実にこのアルバムを選びます。
地元・山形の冷たく暗い雪の夜、自分が残した足跡さえもあっという間に消し去ってしまうような大雪の中、ただ無心にこのアルバムを聴いていた事があります。
そこには白と黒と濃い灰色の世界。
疎らな街灯に照らされた路面は白く、その他の領域は全て真っ黒な闇とぼんやりと大岩のようにそびえ立つ灰色の森だけ。
もう何日も聴き続けているような、あるいはまだ15分も経っていないような時が流れ、アルバムの終着点「No One There」のメランコリックなギターが流れだし、深い深いチャコールグレーの声で、Voヴィレ・レイヒアラが開け放たれた扉から吹き込む冬の冷気のように歌い出します。
The axe,the bottle and the rope
斧、瓶、そしてロープ
暗鬱で荒涼としたメロディと共に語られるただの無機物、それは物置小屋か静物デッサンなのか。
何の温度感も伝えないその歌詞に、僕は酷く凍えました。
この曲の歌詞では、上記のように何かを並立させてただ置くような、散文調の歌詞が何度か出てきます。ですが他の部分は
The dark,the silent and the cold
The desperation and the snow
のように抽象的なワードが並びます。
本当にド頭の部分だけが無機物の羅列なのです。
人には想像力があります。
そこには無いものを夢想し、あるいはその背景について想いを巡らせる事が出来るのは、即ち人間の証明とも言えるのです。
長い長い道のりの果て、冷たいモノクロの夜を歩き通し、やっと辿り着いたあばら屋の中に入ると、斧と瓶とロープだけが置いてある。
扉を開けた先が暗闇であればどれほど良かっただろうか、その極限の無に身を投じ、何もかも無かった事に出来たらいいのにと思っていても、そこにあるのは何の変哲も無いガラクタばかり。
そんな無力感の中に横たわる冷たい絶望を最も雄弁に語っているのが、この冒頭の歌詞だと思います。
実はこの曲があまりにも好き過ぎて、僕らのバンド・アリウタの楽曲「ユキフル」でも(勝手に)真似していたりしてます。
ドラマティックな大展開で語られる、壮大な愛の始まり「Origin of Love」
オフ・ブロードウェイで上演され、後に映画化も果たしたミュージカル「Hedwig and Angry Inch」内で歌われる、本作のテーマ、即ち「愛」についての歌です。
基になっているのは、古代ギリシアの大哲学者プラトンが著作「饗宴」で語った「愛の起源」
人間は元々2つの顔に2対の手足、樽のような身体で車輪の様に速く駆け、大胆不敵な知性を持った完璧な生き物でした。
彼は3つの性、即ち男男、女女、男女を持つ完璧な生き物。
神々はいつしか自分達の立場が脅かされるのでは無いかと考え、一対だった人間を真っ二つに裂いて、手足は一対で性も一つだけの生き物にしてしまいます。
そして人間は引き裂かれてしまった自分の片割れを探し、一つになることで今一度完全な生き物になろうともがき苦しみ彷徨する事になりました。
これが愛の起源である。とまあ概ねそんなお話です。
「Hedwig〜」の物語も、失った自分の魂の半身を求めて、トランスセクシャル(で合ってますかね?)の主人公ヘドウィグが彷徨うお話です。
僕は映画しか観てないのですが、映画に置いてこの曲が披露されるのは物語前半で、要はこの作品が何をテーマにした作品なのかを明示する役割を持っている曲なんです。
When the earth was still flat
And clouds made of fire
And mountains stretched up to the sky
Sometimes higher
地球がまだ平らで、雲は火でできていて
山が空へと背伸びして、時には空より高かったころ
ストーリー仕立ての名曲は古今東西あちこちに存在しますが、その歌詞の冒頭は大体説明から入ります。
BUMP OF CHICKENの「K」なんかも
「週末の大通りを黒猫が歩く、ご自慢の鍵しっぽを水平に、威風堂々と」
って歌詞で始まりますよね。
この曲の場合原典が明確なせいか、歌詞の半分は説明で出来ているんです。
第1パートは舞台説明、続いて先に書いた古代の、完璧だった人間の説明が歌詞になっています。
そしてオリジナリティが発揮されるのは暗雲立ち込める第3パートから。
ここで神々が人間に脅威を感じて、人間を痛めつける算段を相談するのですが、ここで登場するのがソー(Thor/北欧神話)とゼウス(Zeus/ギリシャ神話)。
ソーは言います。
「かつてこの大槌で巨人どもにそうしたように、奴らを皆殺しにしてやろう」
それに対してゼウスは
「いや、ここは私にやらせてくれ。稲妻のハサミでクジラたちの脚をちょん切り、恐竜を細切れのトカゲにしたときのように、奴らを真っ二つにしてやろう」
そして急転直下の大波乱、第4パートは曲・歌詞ともに一気に過激になります。
そして火は雷となり、光の刃となって人間に振り下ろされます。それは人間の身体を真っ直ぐに切り裂き、そこにインドの神が現れて傷口を縫い合わせました。
更にはオシリス(Osiris/エジプト神話)とナイルの神々まで現れて、ハリケーンを巻き起こして人間どもを散り散りに吹き飛ばしてしまいます。
そして第4パートはこう締め括られます。
「いい子にしてなきゃ、終いには一本脚で飛び跳ねて、一つの目で見なきゃ行けなくなる」
曲調はまるで台風一過のように荒涼と、寂寞とした優しさを讃えながら第5パートへ。
引き裂かれた《私》は、目の前に立つ《あなた》を見つめている。
何故だか無性に懐かしい気持ちになり、血みどろの顔を見つめ合い、《私》は確信します。
《あなた》が感じている痛みは、《私》が感じているものと同質のものであると。
That's the pain,
Cuts a straight line Down through the heart; We called it love.
ハートを真っ二つに引き裂いたその痛みを
私たちは「愛」と呼んだ
そして2人は、再び1つの生き物になろうと懸命に愛を交わしあった。
It's the story
The origin of love
That's the origin of love
それは遠い遠い昔、愛が生まれた物語。
これが愛の始まり。
と、概ねそのような内容になっています。
かつて、僕がとある女性とお付き合いしてた頃、まるで神様が自分のためにあつらえてくれたのでは無いかと思うほど完璧な女性で、その頃の僕は
「きっとパズルのピースや歯車のように、互いが互いの欠けた部分を補って上手く回っているんだな」
と思い込んでいたのですが、ところがどっこい。
あまりにもデカ過ぎる彼女の器の隅っこの傷跡に、たまたま僕の傷跡がピッタリはまっただけの話だったのです。
少なくとも当時はそう思い込んでいました。
そこに諸々の不幸や失敗、欠陥が重なり盛大ににメンタルがクラッシュ。
結局その人とはお別れして、突如ひとりぽつねんと、取り残されたような気持ちになっていました。
自分から言い出した別れ話なのに。
そんな時に出会ったのがこの「Hedwig and Angry Inch」だったのです。
あの日感じた痛みが愛だったのか、それとも付き合っていたあの頃に感じていたあの淡い感情が愛だったのか、今となってはよく分かりません。
でも、この映画のラストのように、生きていけたらいいな、と思わずにいられません。
終わりはいつも突然に……『僕と彼女と週末に』
言わずと知れた日本を代表するシンガーソングライターの1人浜田省吾。
なんてったって「Journey of a Songwriter〜旅するソングライター〜」ってアルバム出してますもんね(?)
おそらく、彼を知っている同年代の人の半分は月亭方正のモノマネ、もう半分は父親が聴いてたって人かと思いますが。ええ、偏見ですが。
例に漏れず僕も両親が揃って浜田省吾ファンでして、それこそ母親の腹の中にいる頃からずーーーーっと聴かされて育ってきました。
特にカーオーディオで聴く機会が多かったせいか、省吾さんの声を聴くと、家族旅行の帰り道、車内に流れる倦怠感と祭りが終わったアンニュイな雰囲気、窓の外を流れる真っ暗な景色、そういった思い出がいつもふわふわと頭の中に浮かんで来ます。
子供の頃は「おじさんの聴く音楽」という事で敬遠していましたが、そんな中でも幼少期から特に印象に残っている曲が「モダンガール」とか「陽の当たる場所」なんかのだいぶアダルトな曲ばかり。(ファンの方ならピンと来たでしょう。父のお気に入りは「愛の世代の前に」でした)
そんなマセガキも20歳を越え、歳を重ねるごとに懐かしむ昔が増えて来たためか、ある日ふと聞き返したところ、完全にドハマり。
和製スプリングスティーンとも言うべき、内省的なフォークソングとストレートなロックンロールの応酬に、DNAに深く刻まれていた「ハマショー魂」が目覚めてしまったのです。
結局そこからアルバム全部聴き直してしまった訳ですが、改めて聞き直すと作詞家としての実力が素晴らしすぎる………
省吾さんの歌詞世界の代表的テーマと言えば「恋愛」「青春」「父親」
それぞれをテーマにした曲で名曲がズラリと並び、浜田省吾の歌詞特集を組んだら論文だって出せそうな分量になってしまいますが、今回僕が語りたいのは省吾さんのもう一つの大事なテーマ「プロテスト」な部分、つまり「政治的な楽曲」についてです。
そう書いてしまうと、「うっ」と身構えてしまったり冷めてしまう方もいらっしゃるかも知れません。
僕の観測範囲ですと、日本という国は映画や音楽といった娯楽に政治・思想を持ち込むことを忌避する風潮がありますので、無理からぬ事かとは思います。
ただ、省吾さんが上手いところは政治的メッセージを含む楽曲であってもサビはシンプルで普遍的な言葉を選び、キチンとポップソングにしたてているところなんです。
例えば彼の地元・広島に落とされた原爆を歌った曲だとされる「愛の世代の前に」関しては、核兵器や戦争を思わせるワードは全く出て来ません。
愛の世代の前の一瞬の閃光(ひかり)に
すり替えられた脆い計画(ゆめ)など
崩れ落ちていく
それ故に、プロテストソングであると同時に詩的で優れたロック/ポップソングになっているんですね。
そしてこの『僕と彼女と週末に』も同系統の楽曲といえます。
この曲が収録された「Promised Land〜約束の地〜」は彼のキャリアの中でも最高峰クラスのクオリティを誇るとともに、特に政治色が強い作品です。
何せジャケットからして核弾頭と思しきミサイルの前に佇む省吾さんの写真で、何を言わんとするか、見た目だけで分かってしまいます。
さて、そんなアルバムのラストトラックである「僕と彼女と週末に」はどんな曲でしょう。
ランニングタイムはほぼ9分。
僕が初めて聴いた、ベストアルバム「The Best of Shogo Hamada vol.3 The Last Weekend」収録版では11分半というポップミュージックとしては非常に長尺の曲です。
と言っても決してKing CrimsonやYes等のプログレ的大展開の一大スペクタクルなんて事は無く、基本的には一本道のストレートな曲なんです。
この星が 何処へ 行こうとしてるのか
もう誰にも わからない
やや重苦しい歌い始めから始まり、終わりの無い権力闘争の虚しさや、人生の儚さを短く端的に歌った後、サビが来ます。
君を守りたい ただひとりの
君を守りたい この手で
おそらく、ラジオ等でサビだけを聴いた人や、あまり歌詞について考えない人であれば、このシンプルなサビだけが聴こえて来るかも知れません。
しかしながら、それこそが正しきポップソングであり、プロテストソングだと僕は思います。
どんなに深遠で素晴らしいメッセージであっても、それを届けるメロディが無ければ誰にも届きませんし、何より純粋な政治思想やメッセージを伝えるだけなら歌である必要もなく、そのためには歌詞は余りにも短過ぎます。
僕は常々「作詞に向いてない人なんて殆どいない。その人にはその人の歌詞がある」と思っているのですが、その数少ない例外が
「自分の意見やメッセージがちゃんと伝わってないと気が済まない人」
だと思っています。
「歌」には力があります。それは否定出来ません。
しかし、前述の通り歌詞は余りにも短く、言いたいこと全てを伝えるのは無理があります。
そして歌詞と言うものが双方向なコミュニケーションでは無い以上、そこには必ず聴き手側の「解釈」が挟まってしまい、その時点でメッセージは必ず歪みます。
反戦ソングを歌う人の事を「愛とか平和とか観念的なことばっかり歌っていて、現実の見えていない脳みそお花畑野郎」と思われるかも知れませんが、それは結局歌詞で伝えられる事が少ない事も関係しています。
多くの人に平和について考えてもらおうと思うなら、なるべく難しい言葉を避け、誰かを馬鹿にしたり傷つけるような言葉を使わず、ストレートで、普遍的な人の感情を歌った方が断然耳に残ります。
すると結局「愛と平和」に集約されてしまうのではないでしょうか。
「僕と彼女と週末に」はサビは誰でも一度で覚えられるようなシンプルな歌詞、ABメロでは具体的な表現を避けつつも聴き手に問題提起をします。
相手を引き込み、投げかけ、考えさせる。
それこそがポップだとかプロテストだとかを抜きにしても良い歌詞なのだと僕は考えます。
2番のメロでは拝金主義の浅ましさに潜む人の欲望を、そして明らかな反核・反原発メッセージを歌います。
恐れを知らぬ自惚れた人は
宇宙の力を悪魔に変えた
そしてもう一度サビを挟んでからが、この曲のハイライトとなります。
ここでは穏やかな演奏をバックに、省吾さんの「語り」が挿入されるのですが、省吾さん曰く「どうしても入れたかったけど、歌詞にするには長過ぎた」との事で、語りという手法をとったそうなのですが、結果的にこの部分の印象を強める一助になっています。
週末に僕は彼女とドライブに出かけた。
遠く街を逃れて、浜辺に寝転んで
彼女の作ったサンドイッチを食べ、ビールを飲み、
夜空や水平線を眺めて、僕らはいろんな話をした。
彼女は、彼女の勤めてる会社の嫌な上役のことや
先週読んだJ.D.サリンジャーの短編小説ことを僕に話し
僕は、今度買おうと思ってる新しい車のことや
二人の将来のことを話した。
そして、誰もいない静かな夜の海を二人で泳いだ。
あくる日、僕は吐き気がして目が覚めた。
彼女もひどく気分が悪いと言い始めた。
それで僕らは朝食を取らず、浜辺を歩くことにした。
そしてそこで、その浜辺でとても奇妙な情景に出会った。
数え切れないほどの銀色の魚が、波打ち際に打ち上げられてたんだ。
お気づきになった方も多いと思います。
「僕と彼女と週末に」は
『僕と彼女と終末に』とのダブルミーニングなのだと。
平和で愛に溢れた日常が、ある時大きな力によって崩されてしまう。というのはSF小説だけで無く、現実世界でもまま起こる事でもあります。
実際、2011年4月からスタートした「ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"」は東日本大震災の復興支援を含んでいたのですが、あの時起きた多くの事がこの歌詞に含まれています。
福島第一原発に纏わる諸々の出来事、災害現場で見受けられた人の卑しさと本当の美しさ。
当時自衛官だった僕は諸般の事情で結局現地には行けず終いだったのですが、被災映像欲しさに飛び回るヘリのせいで輸送機を昼間に飛ばせない、なんて話も聴きました。
天災と人災が重なりあったあの未曾有の大災害が襲ったあの頃、家族や愛する人を守っていけるだろうか、守っていかなくては、と考えた人も多いのではないでしょうか。
それは非常に普遍的で、根源的な欲求です。
だからこそ、この曲の歌詞はリリース後に生まれた僕のような若造にも刺さるのです。
ミュージシャンもコメディアンも、政治的発言が疎まれる世相ではありますが、こういった曲がもう少し増えてもバチは当たらないんじゃないかな、なんて思います。
僕の政治的スタンスはともかくとしても、です。
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