豊かな沈黙と、静かな喜びと、
壊れた携帯が、生まれ変わって帰ってきた。すごい。Appleすごい。画面がピカピカ。ピカピカすぎるほど。バックアップ復元も無事完遂できたので、もうこれで「何もなかった」ことになる。携帯が壊れて、携帯がない生活が3日間だけ続いて、携帯が戻ってきて、元どおりになった。ただそれだけ。
コップが、割れた。もともとヒビが入っていたのだろう。床に落ちた瞬間にスパーーンッと3つに割れた。細かい破片は落ちていない。手で拾って、新聞紙にくるんで、捨てた。おしまい。ただそれだけ。
Slackに、よく日記を投稿してくれる友達がいた。返信しようとしばらくしてからもう一度見ると、その投稿はもう消えていた。その子の声に気づいていない人にとっては、その投稿はなかったことになる。何もなかった。ただそれだけ。
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メッセージが失われた代わりに「送信を取り消しました」の文字が残ることを知るくらいには言葉を受け取る難しさを味わっているし、虫がいたら友達になろうとする前にティッシュを掴んでいる。
それでも、そこにあるものを「ある」とすることは、こんなにもあっけなく取り除かれてしまえるのか、と、時々ふと恐ろしくなる。
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今日は大切な人たちと、「オンラインでのイベント開催」について3時間話した。”話してもいいし、話さなくてもいい場”を、オンラインでどう作れるか。ひとりの時間をどうしたら共有できるか。とても難しいテーマだった。
「オンラインによって、参加ハードルが下がる」
そうかもしれなくて、そうじゃないかもしれない。ある人は、オンラインの会議がある日は朝からずっと『20時から会議』が頭から離れない、と話してくれた。私は、ZOOMの参加ボタンを押すのがどうしても苦手だ。「会う時は相手の姿がだんだん近づいてきて認識するのに、オンラインだと急に画面いっぱいにその人の顔が出るからおかしい。」と語っていて、妙に納得してしまった。確かに。距離がなくなるね。
「沈黙を味わえない」
今日気がついた、オンラインの難しさ。相手が喋るのを躊躇っているのか、それとももう話終わってこちらに意識を向けているのか、あるいはただ静寂を感じているのか。わからない。全然、わからない。
わからないと、安心できなくなってしまう。だから、確かめようとする。「今って、何の時間?」 あぁ、沈黙が、会話から消えてしまう。
沈黙によって初めてコミュニケーションが成立し、またそれを実感できる。
21年間しか生きていないけれど、人と人の間に宿る灯は、沈黙の色と近いような気がしている。「繋がることができた」という深い感動は、静寂と共に訪れる。
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ただ一方で、オンラインの方が気軽で親しみやすい、という声もある。きっと「コミュニケーション」の媒体は、ものすごく多様であるし、変容し続けるものなのだと思う。それでいいのだ。それが、いいのだ。
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今日私が気がついた「オンラインの難しさ」は、実はその裏に隠れた、私自身の「コミュニケーションで大切にしたい願い」の裏返しだった。
私は、何も語らないということが時に言葉以上のものを語ることを大切にしたい。相手は、たとえ言葉を発していなくても、「もうすでに語っている」のかもしれない。相手が発した言葉の奥には、何度も膨らましては縮ませ、それでも届けてみたいという希望が詰まっているのかもしれない。
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携帯、コップ、…。存在の目的が定められている(…と少なくとも人間からは認識している)ものは、その目的が果たせなくなった時に「無価値」になる。だから、修理に出してその目的が果たせるようにしたり、あっけなく捨てられたりする。
でも、でも。
せめて、人と人がコミュニケーションをとる時は。誰かと、向き合う時は。
その人が「そこにいる」ということを、祝福し合うような豊かな沈黙と、静かな喜びと共に、ただ味わいたい。
そんなことを、修理から帰ってきた携帯で、打っている。
tama
P.S.
希望をわかちあいながら、「オンラインで、できることがあるかもしれない」と可能性を拓いてくれている友に、心から感謝と敬意を込めて。ありがとう、あかりん。
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