そうして、また携帯が壊れたら、くすっと笑ってしまいたい。


大変だ大変だ。

携帯が壊れた。画面の下の方が、手には反応しないのに、勝手に画面上で動いている。不気味だ。不気味すぎて、思わず笑ってしまった。

昨晩は、そんなこんなで修理に出す準備をしていた。バックアップというものを、人生初めてやり遂げた。パソコンは偉大だ。修理に出す前にsimカードを抜くのを忘れないで!と注意書きがあったので、画鋲でsimカードを取り出す。ちっちゃい。ものすごくちっちゃい。simカードも偉大だ。



「オンライン飲みしよ〜」「ZOOMの脆弱性が話題に」「ゼミはオンラインで行います」「オンライン授業、アクセスが集中しサーバーダウン」「ミーティングもすべて、オンラインオンラインオンライン」

私たちは、繋がりを求めている。家から一歩も出なくても、こんなにも繋がれている。これはすごい。ものすごいことだ。


それなのに、なんだか私はオンラインでのコミュニケーションに疲れてしまっている。あまりにも機能的すぎて、ふとした時にその器用さがいじらしくなる。しゅぱぱぱーんっとし過ぎているのだ。



そもそも幸せというものは、もっとありきたりな、つまらないものなのではないだろうか。
(断片的なものの社会学)


「繋がりたいな」と思うその心は、きっといろんな色が混ざり合っている。話したいような、話したくないような。私とあなたの間に、何か「言い訳」があったらいいのにな。あ、今日も空が気持ちいいね。ね、ほんとだね。


目の前にある存在を見るということは、見ていないということに気付き続けることだと思う。話をする、ということは、話をしない、ということによって成り立っている。


そうして、散歩中どこかから聴こえてきた音にふと足を止めるように、揺れる洗濯物になんだか生きているということの愛くるしさを感じてしまうように、ふと、気付いたりするのかもしれない。


あぁ、繋がっているのかもしれない、と。



これからきっと、もしかしたら「オンライン」によって繋がりを担保する動きがしばらく続くかもしれない。いや、それが主流になっていくのかもしれない。

私の携帯も、きっと一週間くらいで戻ってきて、それからまた今まで通りかもしれない。きっとそうだ。電話もビデオ通話も、わからないけれどもっとすごい偉大な通信手段まで、登場するのだろう。


でも、それでも。

つまらない幸せを、できるだけその繋がりの中に含んでおきたい。繋がりやすさの裏に隠れた、絶対的に繋がれていない部分を、悔しがりながら生きていきたい。




そうして、また携帯が壊れたら、くすっと笑ってしまいたい。



tama


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