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【消滅と復活】ただ生きるか消えるか

田中一郎は平凡な会社員だった。彼は来る日も来る日も仕事に追われ、忙しい毎日を送っていた。

ある晩、深夜まで残業をして帰宅途中に、彼は奇妙な男と出会った。男は黒いローブに身を包み、目の前に突然現れた。田中は驚いて立ち止まり、男を見上げた。

「君、田中一郎だね?」男は低い声で尋ねた。

「そうですけど、あなたは誰ですか?」田中は不安を感じながら答えた。

男はにやりと笑い、「私は死神だ。君の魂を貰いに来た」と言った。

田中は凍りついた。心臓が激しく鼓動し、頭が真っ白になった。「そんな、まだ死にたくない!何かの間違いだ。なぜ私なのだ!」

死神は冷たく頷いた。「君ほどふさわしい人間はいない。だが死にたくないというなら、君には選択肢がある。今すぐ魂を渡すか、それとも特別な契約を結ぶかだ。」

死神は一冊の古びた本を取り出し、ページをめくった。「ここにサインすれば、生を得られる。だが、そのために毎日一つ、君の記憶を消していく。どこまで消えるかは君次第だ。」

「君次第とはどういうことだ?」田中が尋ねると、死神は答えた。
「言葉通りの意味だ。ほんのすこし消えるだけかもしれないし、全部が消えるかもしれない。」

田中は考えた。命を延ばせるが、毎日大切な記憶を失う。仕事ばかりの毎日だが死ぬのは惜しい。引き換えに両親との思い出や友人との時間、これまでの人生――それらすべてが失われるかもしれないが、そうでないかもしれない。

しばらく考えたが、結局死にたくない気持ちが勝った。
「わかりました、契約します。」田中は震える手で契約書にサインした。

その日から、田中は毎朝目を覚ますと、自分の一部が消えていることに気づいた。初日は小さなことだった。自分の好きな映画のタイトルが思い出せなかった。次の日は、友人とのある夜の楽しい記憶がぼんやりと消えていった。

何ヵ月かが経ち、田中はもうほとんど何も覚えていなかった。両親の思い出や顔さえも思い出すことができなかった。明日は何を忘れるだろうかと震えながら、仕事に行く毎日だった。

そんな時、田中はふと死神との契約を打ち切ることを思いついた。「もうやめたい。これ以上記憶を失いたくない。」田中は死神を呼び出し泣きながら懇願した。

それを聞いて、死神は冷酷な笑みを浮かべた。
「契約は破れない。君が生を得るにはすべてを忘れなければならない」

田中は記憶が完全に消えるまで契約が終わらないことを確信した。残された時間をどう過ごすか。田中は深く考えることができず、諦めて会社へと向かった。


死神が会社へ行く田中を見送っていると、死神の同僚が現れた。

「彼は結局最後まで記憶が消えるのか」

死神は答えた。「仕方がない。彼はただ日々を送るだけの生きる屍だ。このような深刻な事態になっても、いつもと同じように好きでもない仕事に行くことが重要だと思っている。記憶をすべて消さないと、この世界の素晴らしさに気づくことさえできないのさ」

数日後、契約は完遂された。生きる屍だった男は、すべての記憶を失って消滅した。そして、日々の尊さを知る一人の男が生まれた。死神は確かに彼を消滅に導く存在だったが、実際は彼を救いに来た存在だったのかもしれない。


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