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自分のことを考える時は名詞で呼べば見え方が変わる(かも)

僕は映像制作や写真制作を仕事にしているのだが、撮影をする以外の仕事の時間がとても多い。

今日はクライアントとの打ち合わせで、ブランディングについて改めて深く考える機会があった。僕の仕事はクライアントと一緒にクライアントのサービスや法人自身のPRの仕事が多い。そういう仕事で度々思うことは、どうやら、人は自分自身のことを客観的に見るのがとても難しい。まるで自分の顔が見えないように、自分の全体像を理解するのは最も難しいことの1つだと思う。

例え鏡に映った自分の姿を見ていたとしても、全体像をしっかりと理解するのは実は難しい。どうしても細部に囚われてしまい、大局を見失うことが多い。例えば、鏡を見ると「髪型が少し乱れているな」と気付くけど、「自分がどんな雰囲気を醸し出しているか」ということを客観的に見るようにできるのは難しいことだと痛感する。

さらに、自己評価には感情が絡んでくるため、冷静な判断が難しくなります。性格や組織の雰囲気により、自分の強みを過大評価したり、逆に欠点を過小評価してしまうことがよくありますし、その逆もある。そのような感情や組織の背景にあるものが、客観的に自分達を理解することの高い壁になるのだと思う

僕自身もクリエーターであるし、自分で事業をする身でもあるので、いつも自分のブランディングを更新しつづけている。自分のことを考えれば考えるほど、「自分のことを客観的に見るのは難しい」と感じる。でも、この難しさが実は自分自身と社会への接点を探すことでもあり、自分探しの旅に出るようなワクワクする冒険であり、生きるコトの意味にもあるはずだと考えている。だからこそ難しい。

特にクライアントとのブランディングに関わる仕事においては、この客観的視点の重要性を痛感する。最初にも書いたけど、僕が頼まれがちなビジュアルイメージを作る仕事は、多かれ少なかれブランドに関わる。映像や写真で紡ぎ出されるイメージは必ずブランドの理念が根底に流れていなければならないと強く思う。それがストーリーとなり結に落ちるから広告になる。

写真のアート作品を発表する時にコンセプトがない作品は組めないと同じことだと思う。

映像ディレクターの仕事は、映像技術の前にこのコンセプト、ストーリー、を立てれるかどうかが価値である。

写真も撮るだけなら技術面が多いけど、アートディレクションも考える上流の仕事をするためには。アングルや照明の感じとか、それはすべてストーリーに寄り添っていないといけない。

だからディレクターと名前のつく職能は、新鮮だけど客観的な視点を提供する役割を果たすもの。そのために、彼らと密接にコミュニケーションを取り、彼らのビジョンを深く理解し、寄り添う仕事なのだなと今日改めて実感した。

僕らの仕事は単純にデザインや脚本を提供するだけでなく、クライアントが自分のブランドを真に理解し、それをどのように市場に伝えるかを一緒に模索するプロセスそのものに価値があり面白さがあるなと。このプロセスを通じて、クライアントのブランドが本当に輝く瞬間を見ることができるのは、何よりもやりがいを感じる部分だなと思う。

自分達のブランディングを輝かしていくことは、自己の作業に思えるかもしれませんが、実際には他人との関わりがとても重要。

自分を知り、他人の意見を取り入れることで、新しい自分を発見し、成長していけるし、それが社会の役に立つはず。

打ち合わせを通じて、「他人の目を借りること」がどれだけ大事かを再確認した。信頼できる仲間からのフィードバックは、自分の盲点を教えてくれる貴重な助言だと思う。他人の視点を取り入れることで、自分の全体像がより明確になり、改善点が見えてくる。

とこんなことを書きながら、他人のことはよくわかって得意なんですが、自分のこととなるとやはりかなり難しい。

そんな時、僕は「私」の部分を自分のなりたかった名前とかに変えてしまって、その仮想のクリエーターのプロデューサーの気分で考えるようにしてます。(それでも難しいけどね)


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