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紫本07 記憶とシナプスの可塑性

脳には様々な機能があります。中でも「脳は記憶そのもの」と言われるくらい、「記憶」は重要なキーワードです。

「山」という文字を見て、あなたは何を想像しますか?


おそらく何らかのイメージが脳裏に浮かんだことと思います。

富士山なら、日本人もしくは日本や富士山に興味がある人。キリマンジャロなら、キリマンジャロに関心や何らかの想いがある人。皿倉山を想い出せば、おそらく北九州に関係ある人(思いっ切り地元びいきです)。

書類の山を想い出せば、電子化が進んでいない会社で今日も仕事に追われている人。地理を勉強している受験生は世界の山脈図を想い出し、「ヨーロッパとアジアを分けるのはウラル山脈」なんて知識が連想されたり、書道家の方や象形文字を研究している言語学者の方は、また違った記憶が思い出されたりしたかもしれません。

ウラル山脈

「山」というひとつの文字情報は十人十色以上の多彩な記憶を引き出すトリガーであり、数限りない人々の記憶に共通するタグでもあるわけです。私は山という文字で、皆 さんの記憶を引き出しました。そのように考えると、私たち一人ひとりは「記憶の集合体」でもあります。

 他者にインタビューしたり、初対面の人と自己紹介し合ったり、友人に逢って「最近どう?」と聞くのも、その人を形成する最新型の記憶にアクセスする作業と言えそうです。

 では脳では、どのようなシステムで記憶されているのでしょうか?

 長年、科学者たちの関心の的だったこのテーマは「脳のニューロンがネットワークを構成して記憶する」と考えられています。ひとつのニューロンがある記憶を保存する、あるいは一定の場所に記憶が集まっているというわけではなく、いろんなニューロンが手と手をとり合うように、広範囲につながりあって記憶が保存されているというのです。

ニューロンとニューロンの間には20ナノメートル(1 mmの5万分の1程度)のとても小さな間隙があり、その接合部のことをシナプスと呼びます。電気信号がニューロンの終末部(シナプス前部)に到達すると、終末部から神経伝達物質が放出されます。神経伝達物質にはドーパミン、アドレナリン、セロトニン、γアミノ酪酸(GABA),エンドルフィンなど、約20種類が知られていて、化学信号である神経伝達物質が、次のニューロンに存在する受容体に結合すると、再び電気信号に変換され情報が伝わっていきます(化学的→物理的→化学的な伝達とも言えます)。

  私たちが新しく何かを記憶すると、シナプス自体が大きくなったり、新しいシナプスができたりして、ニューロンとニューロンの連結が強化されます。あまり逆に使われない記憶のネットワークは、シナプスが小さくなったり、消失したりします。これらを「シナプスの 可塑性(かそせい)」といいます。私たち人間は、シナプスの可塑性ゆえ、ニューロンのネットワークを変えながら、移りゆく環境に適応してきたのです。

 新しい記憶をつくって外的環境に適応していく、そのプロセスをわかりやすい形で教えてくれるのが海に生息する軟体動物、アメフラシです。

 アメフラシはニューロン(神経細胞)の観察がしやすいため、細胞レベル、遺伝子レベルでの研究に利用されてきました。人知れず人類に貢献している、非常に有り難い生き物です。

 アメフラシのエラを指でちょんちょんと刺激すると、アメフラシはエラを引っ込めます。身の危険を感じての反応でしょう。この経験をしたアメフラシは、指が近づいてくるのを察すると、最初よりも早い段階でエラを引っ込めるようになります。

 呼吸に関わる器官(エラ)は、言うまでもなくアメフラシにとって生命維持に重要な器官です。それを人間に指でつつかれるというのは、私たちが鼻と口を塞がれるようなものでしょう。危機的な刺激に対して、ニューロンのネットワークを変化させ、それまでにはなかった「新しい記憶」を創り出すのです。

 新しい記憶を獲得したアメフラシは、ニューロンにおけるシナプス結合の強化が確認されており、このような変化を引き起こす分子も発見されています。脅威に対してより早い段階で対応できる「学習した個体」は、それ以前よりも「生存の可能性が拡大した」といえます。

 私たち人間も、シナプスの可塑性ゆえ、新しい記憶のネットワークの構築や抑制を 繰り返しながら生きています。アメフラシの学習を分子レベル、遺伝子レベルで観察し、強くなるシステムを突き止めたのは、アメフラシではなく人間です。

 人間以外の生き物が、人間を不思議に思い、人間に興味をもち、人間の強さの秘密を解析して、そ の叡智を自分たちの種族のために役立てる、ということは今後もおそらくないでしょう。でも私たちは、他の生き物から学ぶ、自然や環境から学ぶ、歴史や先人から学ぶ、災害や困難から学ぶ、失敗や犠牲から学ぶ、個としての知を、人類全体の集合知にまで高める、といったことをずっとやり続けています。

 他の生き物に比べ、圧倒的に脳が発達した人間は、知的好奇心を武器として、まるでニューロンとニューロンが連結を深めるように、他者の脳ともつながり、文字や情報、音楽や芸術、ストーリーやテクノロジーなどを媒介として影響し合いながら、種としての強さを獲得してきました。(『強さの磨き方』 強さと人間理解より)

人間理解は面白い。強さの磨き方。

無料公開、紫本主義


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