書く闘技、書く兵器
カラテの試合は基本トーナメント。だから相手の実力は様々だ。1回戦からめちゃくちゃ強い相手にぶっ倒されるかもしれないし、ただ普通にやってるだけで相手が自滅して勝つこともある。
だから「知らない人の実力を極力短時間で把握する」というスキルが大切になる。よく達人が、相手と向き合ったら実力がわかる、といわれるけど、素手素足で殴り合い、蹴り合うカラテはまさにそれで、構えから、所作から、脳の回転具合から、眼光から、オーラまで、全てを感じながら戦わなきゃいけない。
すると、「これは何をやっても勝てないわ」ということがしばしば起きる。
「戦う前から諦めちゃいけない」との考えもあるけど、「じゃあ僕が玉砕したら代わりに誰かが戦ってくれんの?」
って話で。
選手は勝つために命を懸けているわけで、そこで全てが終わるためにやってるわけじゃない。
更に僕の場合は、「大怪我したら、明日の外来や手術をカラテの先生が代わってくれるわけじゃない」って事情もあったから、試合場外のことも常に考えてジャッジしなきゃいけなかった。つまり自分としての優先と、いわゆる武道にありがちな根性論、精神論の優先が「相容れない部分」はいつもあった。
格闘技は「ダメージがライフを損なう競技」だから。「根性無い」と後で怒られても、「ライフあっての根性でしょ!」って想いを込めて「押忍」って言ってたな。
というわけで、前振りが長くなってしまったけど、そういう経験もあって僕は「これは勝てない」をジャッジするのがとても速い。肩書や実績というよりも、そういうのを極力排して、自分なりに直観しては直感してみる。
古賀史健さんの書籍、「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」
これはもう、衝撃だった。書くというテーマにおいて、歴代最強といっていいと思う。書くのモハメド・アリ。今から僕が全てを捨てて、書くということを追求して、あと500年くらい特別に寿命をもらったとしても、こんな書を執筆することは僕はできない。その自信だけはある。どんなに練習しても僕はアリにも蟻にもなれん。
「じゃあ、僕にできることはなにか?」
とにかく1ミリでも1mlでもいいから、学ぶ、真似する、取り込む。それしかない。古賀さんの書かれたことを実行するしかない。古賀さんのマインドを少しでもインストールするしかない。
執筆者になれない者は、実践者になるしかないのだ。
言葉の再定義、絵本でのシュミレーション、そして書いた原稿をバッサバッサと削りまくる、「お蔵入りにする勇気」まで。
そして書くというテーマを通じて、「書く以上」の大きな何かを発見するだろう。いちばんの恩恵はここだと思う。
僕の「孤独な執筆作業」は、古賀さんの魂の書籍のおかげで、「書くのレベルを上げるトレーニング」に変わった。いつもそばにいてくれた。最強の書がセコンドである。
帯には「この1冊だけでいい」とある。
ボロボロになるまで書き込んで、2冊目を買うのが僕の秘かな目標だ。
ちなみに「書く闘技」の造語を考えたのは、ひろのぶと株式会社を立ち上げ、旋風を巻き起こしている田中泰延氏だ。さすが、4文字で全てを表す、もうひとりの心強きセコンドについては、またの機会に。
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