ほころび、つくらう、日々

一昨日バイト用に新調した黒のスラックスが届いた。
今日は裾上げテープが届いた。
のでアイロンを出してきて、裾上げをしてみた。

スラックスはスーツ屋のオンラインショップで適当に買ったので、ウエストサイズしか気にしていなかった。
だから裾がひどく余っていたのだ。
いつも履いているユニクロのアンクルパンツ(本当に毎日これしか履いていない)に合わせて長さを測った。
裾上げする分を5センチ残しても、20センチほど下が余ったので、まずは裁ちバサミでこれを切り落とした。
それから裾上げテープをちょうどいいサイズに切って、少し水に塗らして、アイロンで丁寧に押し当てていく。

私は不器用な上にせっかちだ。
その上、こういう何かを"繕う"ような作業が苦手なので、とにかくイライラしないことを誓って根気強く取り組んだ。
たぶん普通の人がやれば10分もあれば出来ることなのだ。
私は1時間以上はかかったと思う。
それでいい。
この類の作業に対する自分のマネジメント能力を信用していない。
だから、裾上げテープを貼り終えたあとで、左右の高さが違っていた、とか、裾がまっすぐになってない、とかいう事態にならないように万全を期した。
作戦は功を奏して、ほとんど完璧に作業を終えることができた。

普段しないことをすると新鮮な気持ちになる。
Youtubeに裾上げテープの使い方がたくさん動画になっていたのもはじめて知った。
この前も、人生ではじめてシャツのボタンを直した。
近所のリサイクルショップで500円で買ってきたアロハシャツ。
これからの季節にいいと思ったのだ。
ところが買って帰って着てみると、すぐに真ん中より一個下のボタンが取れた。
留め糸がボロになっていた。
それで小学生の時に学校で買わされた裁縫セットを出してきて、他のボタンの見よう見まねで付けてみたのだ。
よく見ると、信じられないくらい雑だが、よく見ることはない。
だから必要十分な出来だった。

この日、私の生活の中で「生産的」と言えるのは、このボタン修理くらいだった。
今日もそうだ。
スラックスの裾上げ以外は何もしていない。
しかし、ボタンの日も今日も、大変満足な気分だ。
自分で自分の物を世話した。
これは私にとっては非常に稀な行動なので、無性に爽やかな気分になる。
尋常な人間に近づいた感覚というか、小さな問題に対する心配りというか。

「繕う=つくろう」という字は、「つくら(つくる)」と、"反復"などの意を持つ接尾語「ふ」から成る。
要するに、「作り直す」なんだが、もう少し微妙なニュアンスがある。
それは、モノだけでなく、人間の関係や場の雰囲気を気遣い整えることや、体調の悪さを隠したりする「つくる」も含んでいる。
だから英語で「patch up」や「keep up」や「repair」とか、いろいろ文脈に沿って訳を当ててみても、日本語ではこれらすべてを無理なく「繕う」一語でカバー(cover)できることだってあると思われる(coverさえも)。

漢字の体(たい)にはいつも感心する。
「糸」を「善(く)」とは、よく考えられている。
それは衣服の最小単位と人間の繋がりに代表される繊細な有機的重なりあいの"綻び"を「なんとかする」という非常に消極的で気まずい味わいを持っている。
「綻び=ほころび」は、「糸」の隣の「定」が特殊なニュアンス(※)で働き、「家」の中の「様子(人の足)」が、露になっている=隠れていたものが顔を出す、というところから来ている。
これも、「ほころび」の音の響きと相まってなんとも言えない情緒がある。

思うに、私がボタン付けと裾上げで感じた独特の高揚感は、これらの漢字から来ているように思う。
あるいは、物事の順序として「感じ」が先で「漢字」があるとするならば、私の感じたような微妙な感覚をこそ、昔の人が「これら(漢字)」に託したから、「繕う」や「綻び」という形象に感銘を受ける、ということができるのかもしれない。

日々暮らしていくなかで、いろいろな「綻び」が起き、私らはいつもそれを「繕う」ことばかりに気を取られてしまっている。
しかし、そのことを"記憶し"、"思い出"にしてしまえば、それらは忙しなく自分を急き立てていた時とは、違う空気感で立ち現れて来るのではないだろうか。
曖昧で、消極的で、その場しのぎだからこそ、豊潤な繊細さの不器用な味わいが、そういう思い出にはあるのではないか。

これをよく咀嚼できなくなったときに「ストレス」とか、「見て見ぬふり」とかの無愛想な言葉が、横行してくるのだろう。

言葉を大事に生きるのには、多少なりコツがいる。

(※)
これは「定」よりも「旦」に近い働きで、それゆえに「綻」の音読みは「タン」である。