『民主主義の育てかた』読書会#1
神代健彦(2021)『民主主義の育て方 現代の理論としての戦後教育学』をゆっくり読み進める読書会を始めた。
noteとして公開しながらも,読書会の記録としての機能も兼ね一つの記事の中で考えがコロコロ変わることもあり得る。
また,対話の中で生まれた言葉・アイデアも,個人のセリフではないような形で導入する部分がある。
そんなわけで,実際に行われた読書会を基にしたフィクションとも言える。
また,この読書会のメンバーのほとんどは教育学の素人であり,この記事から何か戦後教育学に関する「知識」を得たいという期待には応えられない。というか,得たと思った知識が根本的に間違っている可能性を否定できない。
今回の本を選んだ一番の要因は,中京大学の亘理陽一教授のこちらの書評。
基本的概念の整理
「はじめに」から読み始めるも,出てくる概念がよく分からないという壁が早速立ち上がる。
しかし,東西冷戦構造,保革対立という現実政治のなかで明確に革新派にコミットした戦後教育学は,冷戦構造の崩壊,日本政治における革新勢力の衰退,さらに,市場原理による社会システムの改革を掲げる新自由主義の台頭といった,その後の日本と世界の政治や社会の変化を受けるかたちで,影響力を大きく減じてきました。とくにアカデミズムのなかでは,ほとんど価値を失った旧教育学とみなされているといっても過言ではないでしょう。(p. 6)
また,一九八〇年代以降いじめや不登校などの現象が社会的に注目されたとき,ポストモダン思想は,学校そのものがそんな「病理」の原因であり,抑圧的な規律訓練装置であると喝破しました。(p. 10)
これらの文に出てくる「新自由主義」「ポストモダン」という言葉を,もちろん聞いたことはあるし,なんとなくのイメージはあるけれど,学校教育に関わらせて理解できないことには先に進めないぞ,ということで早速これらの概念の検討。
メンバーの中に一人,真正面から教育学をやってきた人がいるのが本当に大きい。ありがたい。
すっっっっごく簡素に言うと,
新自由主義的な社会では,強いものが生き残り,生き残った強いものがより強くなりやすい特権を得られる。「選択と集中」により政治・経済の「コスパ」を上げ,学校教育も市場化される。
学校の生き残り戦略,「21世紀を生き抜く力」,「負け組・落ちこぼれ」・・・
これらの言葉が当たり前のように使われる背景がまさに新自由主義的な社会。
公教育全体を良くしたいと思いながらも,地方で生き残るためにめちゃめちゃ頑張っている私立に勤めている自分としては,とても複雑な想いを抱く。
ポストモダンは,教師や学校の権力性を疑い,子どもの自由を尊重する立場。この考え方を極端に表明しているのが不登校YouTuberだろうか。
国家権力の支配から脱する民主的な教育を志した戦後教育と,個人の権利の保障を強く求めるポストモダン主義。
どちらも自由を目指した価値観ではあるはず。
対立するポイントは戦後教育学的な学校は「民主主義の主体を育てる」ことを教育的価値として前提に置いていたこと。
ポストモダン主義は,そもそもある教育的価値が予め決められ,その価値を与えられるためのレールの上を,色々事情があっても,あらゆる理不尽があっても,当然のこととして歩かされている状況に抵抗を示す。
英語教育の歴史とのかかわり
戦後教育学というものに初めて触れた英語教育関係メンバーとしては,英語教育とのかかわりの中でそれを捉えたい。
日本の教育が戦争への反省から民主主義を目指し始め,多くの教育研究団体が生まれていた頃,英語教育も「学びたい人だけが学ぶ」あるいは「最低限のことはみんな学ぶけど,それ以上は強制しない」という「民主的」な在り方をしていた(cf. 寺沢, 2014)
その後1960年代には英語教育が事実上必修科していく流れが加速していくわけで,そこにはまた別の力学が働いていたのだが(前掲書参照),今後も本書を読み進める上で英語教育の辿ってきた道筋との関係も考えていきたい。
学校英語教育の目的は「英語運用能力を高めること」か?
今の英語教育の在り方を考えてみると,そこにはやはり新自由主義的な社会と切り離せない英語教育の実情が見える。
多くの英語教員・英語教育関係者及び英語教育を受けた経験のある人々が文法訳読に偏重した過去の英語教育を強く批判し,そして「英語が使えるようになる英語教育」を求めている。
一人の英語教員として生徒の英語運用能力を上げたいという気持ちはもちろん持っている。
しかし,「学校英語教育の目的は英語運用能力を高めることだ」と断言されると,それに対しては違和感を抱かされる。
「違和感を抱かされる」という曖昧で遠回しな表現にあらわされるように,今までこの違和感を自分でも納得できる形で言語化できたことはない。
「みんながみんな英語を勉強したいわけじゃない」(そもそも英語が必修であることを疑う)
「英語の運用能力を高めるだけじゃなくて,高めてどう使うかまで考えること」(スキルだけ高いけど人間的に嫌なやつ生み出すぐらいなら,出来なくていい)
みたいなことを言ってはきたが,まだ何か足りない気がする。
今回考えたことは
「そもそも『出来るようになる』ことを学校教育で求めたら,『出来なくて辛い』という思いをする子の方が多いのではないか」
ということ。
上の二つと重ねてもいい。
「『そもそも英語になんか興味ないのに,出来るようになることを求められて,出来ないのも責められるのも辛いし,出来るやつらがイキがるのもうざい』と感じる生徒が無視できない数いる」
(これはあくまでスキル論者への反論であり,「英語教育目的論」として自分の考えを構築できてはいない)
ただの卑屈なやつにしか見えないでもないが,英語に興味のない人の気持ちはそれなりに英語運用能力を高めるだけの時間や労力を費やしたいと思って生きていた人間には分からないのではないか。
素朴に「みんな英語ができるようになりたいと思ってる」「英語ができるようになれると信じていないだけ」「できるようになったら,みんな好きになる」と口に出す英語の先生は結構いる(印象)。
本当にそうだろうか。
僕はそうとは言い切れない。
なんせC1(IELTS7.0)の僕は英語が別に好きではない。
余談だがこのことについて考えるとき僕はいつも,映画『プラダを着た悪魔』の終盤,ミランダの"Everyone wants to be us."という言葉を受けて,一瞬考え込み,ミランダのもとを離れる決意をしたアンディを思う。
それと,英語好きは大体こう言う。
「英語ができるかできないかで得られる情報量が全然違う。触れられる文化の量が全然違う」
それは認めざるを得ない事実かもしれない。
しかし,触れられる情報量が多いことはそれ自体で果たして本当に価値を持つのか。
以前の記事でも触れたが,そもそも日本語中心に文化に触れていても,人生の時間は自分の興味のあるコンテンツをすべて消費するには短すぎる。これ以上増えられても正直困る。
乃木坂46と日向坂46,それとパオパオチャンネル。これだけで結構お腹いっぱいなのだ。あとは,お茶系スイーツと筋トレか。
もちろん論文を読んだり書いたりするなら別かもしれないが,学校教育のゴールは論文を読み書きできる人を育てることでもないだろう。
そもそも外国語で書かれたものの翻訳も含めて,日本語でこんなにも多くのコンテンツに触れられることの幸せをもっと噛み締めたいぐらいだ。
そしてもちろん「これからの時代は英語ができなきゃ生きていけない」というのは前掲書で一蹴される。
結局のところ,学校英語教育には目的論が不在だ。
「何のために英語を教えたらいいのか」を個々の教員がそれぞれの価値観で考えるとなれば,どうしても「受験のため」か「スキル獲得のため」が結局わかりやすい。
それは学習者側の認識とほぼ変わらない。英語教育のプロとしては生徒より一段高いレベルで教育目標を持っていてもいいと思うのだが,どうだろう。
「スキル獲得のため(だけ)ではない」「受験のため(だけ)ではない」とはよく聞くが,「じゃあ,何のため?」という問いにズバリ答えられるだろうか。
自分自身,この問いに明確に答えられるようになるための道の途中であるという自覚がある。
この本もその道中で必要そうなものとして読んでいる。ただ一言で「民主主義を育てるため」という答えに行き着くわけではないとしても。
コンテンツの貧困問題がスキル派と非スキル派を繋ぐ
話題は「英語教育で扱われるコンテンツの貧困」の問題にも及んだ。
コンテンツそのものが面白ければそれを味わうことが楽しみとして受け入れられ,「なぜ英語を学ぶのか」という疑問を抱かずに済むかもしれない。
生徒に「世界で通用する」英語運用能力を身につけさせたい英語教師の多くは学校の検定教科書などのコンテンツをそのままで十分とはしないだろう。
一方,「非スキル派」の教員(スキル育成が最大の目的ではないという点で認識を共有するのみで,その先の目的の設定に至っていないため,現状こう呼ぶしかない)からしても,伝統的な学校英語教育で用いられてきた教材では不十分だという点に関してはスキル派と同じ見解だろう。
「教科書をただなぞるだけじゃダメだ!」
この合言葉によってスキル派と非スキル派は重なる。
「英語運用能力を高めることが目的じゃないのなら,君はどんな授業をするの?」
非スキル派の英語教師は何と答えるだろう。
自分の場合,はっきり言って,授業の大部分は英語運用能力の向上に繋がることをやっている。ただ,「出来るようになるまで」とか「出来なかった人は...」とか,CAN-DOで脅迫することはない。
出来るようになることを目指して学習や活動と呼ばれるものに取り組んだとしても,最後彼らと一緒に焦点を当てるのは「出来たか出来なかったか」「どれぐらい出来たか」ではなく,「その過程で何を学び,何を考え,何を語り,何が変わったか,誰のどんなことを今までよりどれぐらい深く知ったか」
読書会の時にはここまで言語化できていなかったと思うが,こういうことが言いたかった,多分。
当日は「スキルは高めたとしても,評価の軸にしなくていいのではないか」という声もあった。
その意見を聞いたその時は自分も基本的に同意したが,
「『スキルは評価しない』だとそれはそれで辛い人がいる」という反論も。
スキルが評価されるから辛い人がいるんだとばかり思っていたが,確かに逆も然りだ。
自分の担任しているクラスのある生徒が「テストで測れる学力だけじゃダメだ」と色々な大人から言われ,「小学生時代から積み上げてきた僕の価値を否定しないでください」と僕に言ってきたことがある。
今後教育に関わり続ける中で,彼のあの言葉は胸の中から消してはいけない気がする。
学びの過程を楽しめるのは一部の人だけか
スキルだけでなく,学びの過程を楽しんでほしいという願いを持っている教師は多いだろう。
しかし,自分が英文法の勉強を楽しめたことがある意味「特殊」だったように,学校の授業の過程を楽しめるのも一部の物好きだけなのではないか,という問いが投げられた。
確かに現状,そうかもしれない。しかしそれを「そういうものだな。仕方ない」としてしまうのは,自分の生き方として受け入れられなさそうだ。
以下の二点から反論したい。
① 今の学校の授業の内容や質,そして目的が変わればどうだろうか。
つまり,一部の人しか授業を楽しめないのではなく,今は一部の人しか楽しめない授業をしてしまっているのだ。
広く多くの人がその過程を楽しむことができ,授業が終われば授業の前より少し「幸せ」になっているような学校教育の構築を目指すことは筋違いだろうか。
② 今の子どもたちは結果にコミットした教育の方が「幸せ」を感じやすいとしたら,その価値観をこのまま醸成し続けて良いのか。
今の子どもたちは既に新自由主義の社会で育てられている。高度に効率化された世界に生きている。
真っ白なキャンバスにこれから新たな価値観を描くことができるわけではない。既に何かの色に染まっている。
それでも今の社会の価値観,そこから要請される学校教育の内容・哲学。それをそのまま受け入れることへの抵抗の一つが本書『民主主義の育てかた』なのではないか。
あるいは本書編者の神代先生が昨年出した新書『「生存競争」教育への反抗』もそうだ。
外国語教育における異文化理解
非スキル派教師の多くは外国語教育の目的として「異文化理解」を挙げる。
多文化共生の社会において,外国語を通して異文化を知ることは大切だ。
読書会メンバーの中には他者や他文化を知ることを通して,自分自身や自分の文化を知ることがゴールだとする者もいた。
究極的には「自己理解」のための外国語教育。
とても良いと思う。自分もそんな英語教育がしたいと思う。しようとしている。
ただ一つ,英語教師の間であまりまともに検討されてこなかったのが「そもそも異文化とは何か」という問題ではないだろうか。
英語教育で扱う「異文化」はアメリカやイギリスを中心とした英語圏文化にとどまってしまいがちで,しかもその質も担保されない。
異文化理解・多文化共生どころか,偏った文化観の醸成をしてしまっている可能性を誰が明確に否定できるだろうか。
英語圏文化や日本語を使わないコミュニティを,「他の国にある異なる文化」と見なしているところから見直しが必要かもしれない。
「標準日本語」を話さない人々のコミュニティは,驚くほど近くに存在する。
日本が2000年以上単一民族国家であったとする老人の妄想に批判的であるならば,我々はもっと身近にある「異文化」に目を向けられるはずである。
「海外には行かないから英語・外国語はいらない」は本当に理屈として通っているだろうか。
そもそも「自分に必要のあることしか端から学ぼうとしない」という価値観でいいのか。
「人のために学ぶ」
この価値観に学校教育がシフトすることができれば,何かが変わる気がしている。
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