見出し画像

多様な生徒役へのチャレンジ

2年生の英語科教育法Iの第4回。模擬授業と対話型模擬授業検討会を軸に据えているこの授業。
毎回の流れは、
・前時の学生の振り返りコメント紹介 (約5分)
・模擬授業 (約15分)
・対話型模擬授業検討会 (約20分)
・講義 (残った時間)
という感じだ。
模擬授業の前の説明だったり、対話型の準備だったり地味に色々なところで時間をとられるので毎回講義は20~30分程度だ。
とりあえず今期これでやってみて、2年生の間に伝えておきたいことは後期の英語科教育法IIでしっかり伝えていく。

この科目の履修生はまだ英語教育の諸理論をほとんど学んでいない段階から模擬授業を求められる。これはかなり酷なことだとは分かっていてやっているが、今回はこの授業構成を選んだ目的を整理した上で授業のことを振り返っていきたい。

模擬授業を課す目的

① 教える側の視点を持つ

私の教えている北陸大学は教員養成大学ではない、いわゆる開放制の教員養成課程を持つ私立大学だ。教員免許取得のために必要な教職科目は開講されているが(私が育った教員養成系の学部とは違って)教師になることを目指す前提で学部全体のカリキュラムが組まれているわけではない。

私の学部時代には英語科教育法以外にも英語教員養成系の科目が色々あり、多くの授業で学生が先生役を務めるという形態の活動が用意されていた。
本学は英語だけでなく中国語専修があり、言語(国際)文化を専門とする先生方も沢山いるなど、言語・文化を広く学ぶ場としては私の学んだ英語教員養成課程に決して引けを取らないというか、むしろ本学の方が優れているとさえ思う。(私がちゃんとした言語学の授業を受けたいと思ったら隣の学部の授業に出させてもらったり、イギリスに行ったりしなければならなかった)

それでも教員養成が前提とされていない本学では学生が教師役を務めるという機会は圧倒的に乏しい。今の私から見て本学のその実状は、学部1年生の頃から複数の授業で「教える」という視点を持たせてもらっていた教員養成系学部との最大の違いである。

「教える」という経験は、かなりの「鈍感さん」でない限り、ほぼ必然的に「上手くいかなかった」という実感を伴う。その「上手くいかなかった」感こそが教育や授業についての様々な理論・データを参照するときに生きてくる。
「あの時の自分の授業にはこの考え方が足りなかったんだ」「こういう生徒がいるってことを分かってなかったな」「次やる時はこのアプローチでやってみようかな」
そういう思いを持ちながらでないと、なかなか理論やデータだけを単体で学びに昇華させることは簡単ではないと私は考えている。

実際、ほとんど模擬授業経験を持たない学部3年生の授業では、昨年度習っているはずの諸概念がほとんど覚えられていないことを確認済みだ。
と言っても用語の暗記をしてほしいわけではないので、それ自体は問題ではない。そうではなくて、理論や概念を使って授業について考えてみた経験がどうやら乏しそうだということに私は引っ掛かっている。

だからこそ、一見「失敗」に見える模擬授業が行われることは百も承知の上で、それぞれの現時点での全力でトライしてもらいたいと思っている。目的や狙いを持って授業に臨んで、それが上手くいかなかったとき、我々は新たな視点を求める。
自分に本当に刺さる学びに実際に出会えるのはすぐ次の授業かもしれないし、模擬授業のことを忘れかけた頃かもしれないけれど、授業者を経験した後に新たな学びを全く求めないとしたら、それこそが本当の「失敗」だし、教職のゲートキーパーという教師教育者の役割の一つは、そういう学生に教職を諦めてもらうことも必要かもしれないと思いながらやっている。(幸い今のところそういう感じの学生とはこの大学では出会っていない)

② 教えられる側の視点を洗練させる

授業を、あるいは教師と生徒を、「教える」「教えられる」という関係性で表すべきかどうかという問題はあるが、ここでは一旦「教える」「教えられる」と表現する。

学生は6歳で小学校に入学してから10年以上もの間、児童・生徒・学生として「教えられる側」であり続けてきた。「教えること」についてはまだまだ勉強中と言えども、「教えられること」については特に分からないことなんてない、と思いがちだ。というか、「教えられること」について考えることもないかもしれない。

しかし、私たちは皆、自分1人分の教えられる経験しかしてきていない。教室には自分とは違う多様な児童・生徒・学生が何人もいる。教師が自分自身の教えられる経験だけを基に授業を考え、思いを伝えていては、多様な学習者への眼差しが欠けて当然である。
正直言って、そこに「完璧」は存在しないようにも思うが、少しでも色々な学習者の存在を念頭に置きながら教えることができるようになるために、教えられる側の視点を洗練させてほしい。

また、教えられる側の経験として大切なことは児童・生徒の多様なキャラクターを想定することだけではない。初めて授業で出会う概念(学習事項)や、初めて経験する活動において、実際の児童・生徒はどんなことを考え、感じ、どんな風に手を動かし、どんな風に周りを観察するだろうか。
もう既に学んで知ってしまっている大人の視点を可能な限り捨てて、学習者の新鮮な認知プロセスを想像し、頭の中までも生徒役を演じてみる。そこまで出来るようになれば、教師の個人的な経験にのみ裏打ちされただけの授業をすることは無くなるだろう。

生徒役を楽しみ始めた学生たち

ようやく今回の授業の話に入る。今回が3回目となる模擬授業。これまで何度も「生徒役が大事だよ」「今の自分を一旦捨てて、色々な子どもを演じてみよう」という話をしてきた。私自身の学部・院生時代のかなり"面倒な"生徒役を演じていた頃のことも少し話したりしてきた。

今日はある学生が「話さない子」を演じた。彼女は毎日のように私の研究室に友達と一緒にやってきて談笑しているような普通にお喋り好きな学生だ。「いつもの自分とのギャップがありすぎてちょっと大変だった」と振り返ってくれたが、実際喋りたいのに喋らないように我慢していたタイミングがあったり、この授業に聴講で参加してくれている3年生の先輩とペアワークをする時にも「話さない子」を演じているのでとても申し訳ない気持ちや焦りを感じていたようだ。

彼女のこのチャレンジにはまず拍手を送りたい。いつもの彼女ならペアワークを引っ張るような発言もするかもしれないけど、そこをグッと堪えてそうでない子どもを演じた。多様な学習者を想定できるようになることの第一歩を勇敢に踏み出したと思う。

一方で、まだまだ乗り越えるべき課題はあると感じた。これは彼女だけでなく、これから色々な生徒役を演じようとする全ての学生、そしてそんな生徒役たちと向き合う全ての先生役の学生に突きつけられるであろう課題だ。

課題① その子のTHINK、FEEL、WANTは?

一つは、生徒役としての自分が本来の自分からのキャラクターと遠ければ遠いほど、「何をするか」(DO)の部分ばかりに目が向いてしまう、つまり、学習者のTHINK、FEEL、WANTに注目しきれないことになってしまうということだ。
今回の彼女は「話さないようにしなきゃ」ということに一生懸命で、その時のFEELはと言えば「先輩がペアワークしてくれてるのに、申し訳ない!」という気持ちにほとんど支配されていたかもしれない。
もちろん、DO以外が全くないというわけではないし、実際検討会でも「自分に関係ない」「めんどくさい」という英語に興味を持てていない子どものFEELを言語化してくれた。
次は「じゃあ、そういう学習者は授業中どんなことを考える(THINK)のだろう?」「英語に関心のないこの子が授業中に望んでいること(WANT)は何だろう?」という風にどんどんDO以外の部分の精度も高めていきたい。
と言っても、これは私も結構苦手で、どうしてもDOばっかり上手に演じようとしてしまっていた記憶がある。長い旅になると思うけど、頑張ろう。

課題② 先生はその子を見れているか?

多様な子どもを演じることは、もちろん演じている学生本人には色々なことを考える貴重な経験になるが、模擬授業という場を考えれば多様な子どもを演じることは先生役の学生の成長のためにこそ行われるべきである。

「先生、その授業じゃこの子は振り向かないよ」とか「先生、この授業めっちゃ楽しいわ!」とか「今一生懸命考えてるからちょっと待って!お願い!」とか「この子静かにしてるけど、手元は色々メモ取ってて、頭の中ではすごい考えてるんだよ」とか「隣の席の子とちょっと活動しづらいな」とか、子ども役を演じることを通して色々な情報を先生役の学生に伝えることができる。

これもまた教員養成系学部じゃない本学の弱みだが、正直言って子ども役が4人しかいないこともあってそこまで多様な子どもが教室中に溢れるわけではないのだけど、それでもその4人で伝えられるだけのことは伝えてあげたい。

そして一番大事なのは、生徒役が発信してくれている色々なサインを先生がキャッチすること

生徒役が色々やってくれても、先生がそれを見ていなければ模擬授業参加者全体の学びにはなかなか繋がらない。対話型は授業で起きた事実を軸に進めていくので、先生が生徒のアクションに反応しないとその生徒のアクションは無かったことにもなりかねない。
(もちろん、「実は私あの時こんなことしてて」と検討会で自ら言ってくれたり、私が気づいて「〇〇さんこの時何してた?」と聞いたりしてもいいのだけど)

この課題も乗り越えるのは簡単ではないけれど、自分が色々な生徒役を演じれば演じるほど、先生役になったときに「どんな生徒たちがいるだろう」と思って教室のリアルに目を向けられるようになると思う。

生徒(役)同士の関係性

上で紹介した「話さない子を演じた」学生のおかげで私もこれまであまり意識していなかったことに目を向けられた。

生徒(役)同士の関係性や関わり方だ。

上で書いたように、多様な生徒役を演じることは基本的に先生役の学生のためにこそ行われるものだと私は考えている。
しかし、そこが教室である以上、当然生徒(役)同士の間にも多様な関係性やコミュニケーションが生まれ、それに対してそれぞれの生徒(役)が色々考え、感じながら授業を受けることになる。

ペアワークの時に例の学生演じる「話さない子」に「無視された」と思った別の学生は「俺何かしたっけ?」と(リアルな大学生として)不安になり、生徒役としては「ペアワークの時間早く終われ」と思っていたようだ。
その後、ペアを組んだ3年生も「え、私何か言っちゃったかな?どうしよう」と、(やはりリアルな大学生として)焦っていた。

今回はまだまだ周りの生徒役の学生に「あ、君はそういう子なのね。なるほど。じゃあ僕はこう接するよ」なんていう余裕はなくて、あたふたしてしまったが、今回の経験が次回以降に必ず生きてくる。

先生は色々な狙いを持ってペアワークやグループワークをやろうとするけど、そもそもそのメンバーは安心して一緒に学べる状態なのか?

普段の自分の授業なら常に気にするところだが、模擬授業となると何故かそこをあまり意識していない自分がいたことに気付かされた。

まとめ

今回はいつもの自分と全然違う子どもを演じることにチャレンジしてくれた学生のおかげで色々な気づきや、今後の模擬授業の質を引き上げるであろうきっかけが与えられた貴重な回だった。
同時に、多様な生徒役を演じることの目的を見失ってはいけない。
不必要に模擬授業を掻き回すのではなく、先生と生徒、そして生徒同士の多様な「コミュニケーション」を生み出すために、色々な子どもの存在を思い浮かべたい。
そして、子どものDOだけを演じるのではなく、THINK、FEEL、WANTにまで深く想いを馳せたい。


これまでの英語科教育法の授業ログは全てこちらのマガジンからご覧いただけます。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?