見出し画像

英語学習はゲームなのだろうか?

平尾昌宏(2022)『人生はゲームなのだろうか?—<答えのなさそうな問題>に答える哲学』を読んだ。

この本をごく簡単に紹介した上で,「英語学習はゲームなのだろうか?」という問いに答えを出したい。

ゲームとは何か?

「ゲームとは,[1]プレイヤーが目指すべき終わりが定められていて,かつ,[2]プレイヤーにできること・できないことが定められている人間の活動である」

平尾, 2022, p. 49

ここでの「ゲーム」にはいわゆるスマホやゲーム機で遊ぶコンピュータゲームだけでなく,スポーツの試合やテーブルゲームも含む。

「目指すべき終わり」というのは,相手に勝利するとか,高いスコアを取るとか,相手のゴールに相手より沢山ボールを入れるとかだ。

そして,「できないこと」というのは,物理的に人間には不可能なこととか,個々の経済的事情で不可能なことという意味ではない。
バスケットボールではリングにボールを入れることを目指すとは言え,その過程でボールを持ったまま3歩以上歩いていはいけないというような制限がある。

この定義に至るまでの議論に関心があれば,この本を手に取ってもらいたい。ここではこの「ゲームの条件」を英語学習に当てはめて考える。

英語学習者に目指すべき終わりはあるか?

上で見た通り,ゲームの条件その1はプレイヤーが目指すべき終わりが定められていることである。

では,英語学習者には目指すべき終わりはあるのか?

英検1級? TOEIC990点? IELTS9.0?

アメリカでの勤務? オーストラリアへの移住?

上に適当に列挙したものに限らず,熱心な英語学習者には何かしらの目標があることも多い。
しかし,英検1級やTOEIC満点を取ったら普通そこで英語学習は終わるのだろうか?
アメリカに勤務することが決まったら,そこで英語学習は終わるのだろうか?

答えは,(ほとんどの場合)「否」である。
資格試験等は確かに「チェックポイント」にはなるが,基本的にはそれ自体が目的になるものではない。(英検1級取ると会社から特別ボーナスが貰えるという場合はそれが「ゴール」かもしれないが)
英語圏に勤務・居住するとなれば,英語学習は終わるどころかよりその密度が増すだろう。
立派な資格の取得や海外勤務・移住を英語学習のインセンティブとして実現できることもあるだろうが,それ自体が「これであなたの英語学習は完了です!Mission Completed!」と告げてくれるものではない。

英語学習者にできること・できないことは定められているか?

もう既に条件[1]を満たさないことから「英語学習はゲームではない」ことが確定したのだが,もう少し続けたい。

英語学習者が英語力を高めるためにできること・できないことは定められているだろうか。

これも答えは「否」だ。「できないこと」は特にない。

英語力を伸ばしたい/英語で何か出来るようになりたいと思えば,そのために使えるものは何でも使えばいい。そこに英語学習を制限するルールは存在しない。

というわけで,以上見てきたように,英語学習はゲームではない。

なぜこの記事ではこんなことを考えてきたのか。

英語学習がゲーム化されている気がする

中学校・高校で英語を教えていると,ここまで簡単に論じてきた「英語学習はゲームではない」というテーゼが,実態に合っていないように思えてくる。

最大の要因は,英語学習のゴールが「大学合格」と定められていることだろう。受験はゲームなのである。(平尾, 2022, p. 60)

英語学習のゴールを大学合格と定めているのは学習者(生徒)だけではない。ほとんどの教師・学校も(「英語は人生でずっと使うから大事だぞ」と口では言っているが)生徒と同じく大学合格を英語学習のゴールとしているだろう,と私は考える。
そう考える根拠の一つが定期試験のあり方だ。

定期試験は受験と同じ条件で

定期試験は授業で学習したことの理解度・定着度を測るテストとして行われる。授業では教師の発問,友人や辞書の手助けを受けながら英文を読み解き,自分なりの意見を発することが往々にして求められるが,テストとなると人と話すことや辞書を使って調べることは許されない。
1時間目なら覚えていたかもしれない単語を3時間目のテストで忘れてしまうと,それによって点を落としてしまう。辞書やスマホで少し調べれば何の苦もなくまた思い出せるだろうに。

「英語の力を伸ばしたい」,もう少し具体的に言うなら,「色々楽ではないだろうけども,なんとかして英語で読んだり書いたり聞いたり話したりする力を付けさせたい」と願いながら授業をする一方,その成果を発揮させる場は生徒のベストな状態で挑める場所ではなく,受験さながらの「身ひとつ」での英語使用を強いられる試験である。

もちろん,試験以外に様々な活動を用意してそこで色々な補助を活用しながら英語を使えばいいということは理解できる。
しかし現実問題として,いや,これは私の英語教師としての力量の問題でもあるのだが,定期試験が持つ威力はあまりに大きい。
生徒が覚えたいか/使えるようになりたいかとは関係なく,覚えるべき語彙リスト・書けるようになるべき文リストが外的に与えられる。
定期試験の点数や順位に怯えながら英語を学習した結果,英語を主体的に学ぶ意欲を持ち,英語学習を自分の人生に前向きに位置付けるような学習者はどれほど生まれるだろうか。

「そんなこと言っても,大学受験は避けられない」というのも悲しいことに(いくらかの学校にとっては)事実だ。
よく英語教師同士で雑談していると「受験さえなければねぇ〜」という話にもなるし,私もそう思うこともある。

でも,受験は一つのゲームであり,一方人生はゲームではない(突然のネタバレ)。
英語が一つのゲームの中だけに埋め込まれ生徒の人生には関係しないものとなることは,多くの英語教師が望むことではないだろう。

定期試験に辞書を持ち込ませてみた

ということで,ささやかな抵抗として私は直近の定期試験において和英辞典の持ち込みを許可した。
元々(過年度からずっと)学年全員が「コアレックス英和辞典」を一斉購入していたものの,今やiPadでweblioどころかDeepLにまで平気でアクセスする生徒たちには全くありがたがられていない。

さすがにiPadを持ち込ませて試験としてまともに機能させられるような状態までは持って行けず,幸いにも全員平等に同じ辞書を持っているということもあって,「コアレックス英和辞典」を持ち込んでもらう。

それを結構前からアナウンスし,授業でも辞書を引いてみようという時間を作るなどして,少しだけ辞書に親しんだりもした。
そしてテスト前になると何人かの生徒に変化が見られた。
例えば,教科書の本文の単語を必死に丸暗記しようと励む生徒が毎回一定数いるが,今回はその必要がないため文法の学習やリスニング問題の練習に取り組む時間を確保できたように思う。
また,「そもそも単語が無理だから,何やっても無理だ」という投げ出し系生徒も毎度何人かいるが,今回は「文法さえ覚えとけば単語はなんとかなる!」という声が聞こえてきた。
外国語に立ち向かうのは結構エネルギーがいる。そんな時,横にいて教えてくれる人や,色々な疑問を解決してきた先人や,そして複雑なことを色々と捨象して記載してくれてある辞書や参考書は結構助けになる。

学校英語教育にどっぷり浸かると,こんな定期試験は「邪道」のようにも思えるのかもしれない。
しかし,私も英語で本や論文を読む機会がどれだけでもあるが,「次の本のために予め覚えるべき単語が1000語ある!」など一度も思ったことはない。
読みながら意味の分からない単語を調べ,その都度余白に書いていくだけだ。
「単語調べてる時間無駄だなぁ。単語力増やしたいなぁ」と思ったらその時こそ単語の学び時。
英語教師になるぐらいの英語力を身につけた大人なら誰しもがそういう過程を経ているのではないだろうか。

私(たち)はたまたま定期試験・大学受験に向けて脅されて取り組む英語学習にも挫けることなく,英語を生涯学ぶものとして人生に埋め込むことに成功した。
しかし,一人でも多く「健全な」英語学習者を増やしたいと思うならば,可能な限り英語学習を「非ゲーム化」する努力をするべきではないか。

そもそも人生がゲーム化されていないか

ここまで書いてきて,自分でも「なんか綺麗事を並べてるなぁ」という感じがしている。
実際,「人生において受験は超大事で,その受験において英語は超大事なんだから,生徒の人生を思ったら英語をとにかくやらせることは超大事」と切実な英語教育のリアルを簡単に言えてしまう。

しかしそれは本当の意味で「生徒の人生を思っ」ているのだろうか。

神代(2020)は「生存競争(サバイバル)」という言葉で今の学校で学ぶ生徒たちの苦しい状況を書いている。

しかし,教育はゲームではない(平尾, 2022, p. 203)。

生徒の人生のために教育を行うということに疑いを差し挟まないとすれば,我々は教育を絶対にゲームにしてはいけない。

「ゲームとは,[1]プレイヤーが目指すべき終わりが定められていて,かつ,[2]プレイヤーにできること・できないことが定められている人間の活動である」

平尾, 2022, p. 49

「ゲーム」を「教育」,「プレイヤー」を「子ども」と置き換えてみよう。

「教育とは,[1]子どもが目指すべき終わりが定められていて,かつ,[2]子どもにできること・できないことが定められている人間の活動である」

こんな教育は嫌だ。

しかし,今の学校教育でこの定義が当てはまるような気もしてしまう。

抵抗をやめてしまえば,この教育のゲーム的構造はますます固定化し,(そもそも望んで参加したわけではない)生徒たちがこのゲームから降りることは今後とも,これまで以上に,大きなリスクを伴うものになる。
たとえ「綺麗事」だとしても,誰も今より「綺麗」な世界を思い描かないとしたら,きっと世界は「綺麗」になることはない。

よって私はこれまでも(小さなシミすら消すには至っていないが)自分なりに抵抗してきたつもりだし,これからも抵抗していくだろう。

【これまでの抵抗の爪痕】


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?