「なんで英語を勉強するの?」への英語教師としての本気の回答

僕は塾のアルバイトをしていた大学時代からずっと「英語は別に勉強しなくてもいいよ」と言い続けてきました。
そこには「英語学習に費やした時間を別のことに費やしてたらどんな人生だったんだろう?」「生まれる場所が違えばもっと楽に習得できたものに対して人生のほとんどの勉強時間を割いてるのアホらしい」「自分の場合,英語を習得するより日本語で積極的に人と話せるようなトレーニング積む方が友達増えたと思う」という偽らざる想いがあります。自分は「英語は他の人よりちょっと得意だから負けたくはない」という小さな小さな小さな小さなプライドで英語を勉強してきた面が強いので,純粋に語学を学ぶことの楽しさを正直あまり知りません。(最近はNiZiUにハマっているので,韓国語を勉強したいなとちょっとだけ思っています)

子どもの頃から言葉について考えること自体は好きだったので,言語学と出会えたことも含めて英語を頑張る人生は必然だったのかもしれませんが,とりあえずそこは今回置いておきます。

「英語が好き」という人への違和感だの恐怖心だの

英語ができない・嫌いな人は英語にやたらとコンプレックスを感じ,英語を好きだという人は無批判に英語ができることは良いことだと考えがちなように思います。

英語教育の実践系の研究の多くが「〜できるようになる」ことを目指していて,それができるようになることが「善」であるということを疑っている様子はありません。

英語教育に限った話ではないかもしれないですが,生徒の希望に関係なく公教育の一科目として「提供」している割には,本当に教育的価値があるのか,価値を創出するにはどういった教育であるべきなのか,英語を教える全ての先生方それぞれが十分に検討しているとは思えず,「英語が好きだから,子ども達にも英語を教えたい」という無邪気さに時に恐怖心すら抱いてしまいます

そんなモヤモヤを生徒と共有

夏期講習の最終日,黒板の真ん中に「60分×13コマ」と書きました。僕が1週間で担当した夏期講習のコマ数です。(ちなみに普段は45分×14コマ)
「なんで英語だけこんなに授業あるの?」という僕の問いかけに,「そりゃ英語が大事だからじゃないですか?」「この学校は英語に力入れてるから」「英語ができなきゃ困るから」と言った返答。
(Facebookには書きましたが,「他の先生は忙しそうなのにかわむら先生は暇そうだから」みたいな核心めいたことも言われましたが,この後もやり取りはこの記事の目的に沿って全体的に理想化した形で記述していきます。)

生徒からの返答を黒板に書き,それぞれに「なんで?」と返します。その後はざっくり言うとこんな感じ⬇︎。
「国際化」「なんで国際化すると英語がいるの?」「アメリカが最強だから」「アメリカが最強ってどういう意味?」「武力と財力」
「国際交流」「なんで国際交流が必要なの?」「国際交流は学校として見栄えがいい」「みんなは国際交流したいと思ってる?」「(9割の生徒が国際交流に)興味ない」
「大学受験」「なんで大学受験では英語が大事なの?」「使える人材になるため」「使えるってどういうこと?」「ビジネスで結果を出せる」
「世界共通語だから」「何それ?」「世界で一番話されてる」(なんで?って聞いたらアメリカ最強に戻るかな…)「じゃあ,今英語ができない君たちは世界から省かれてるんだ?」「そうかも…」

一部,もう少し詳しくやりとりを紹介します。

川村(K)「アメリカにはなんで財力があるの?」
生徒(S)「なんかアメリカ人って仕事できるイメージ」
K「そうなんだ。日本人はできない?」
S「一部のエリートしか英語できないし,それ以外はできるってイメージないです」
K「英語ができる人が仕事できる人?」
S「英語できないと海外と取引とかできないじゃないですか」
K「そうなんだ。みんなが働いてるとして,アメリカの企業に行って何かプレゼンする時,英語?」
S「英語でしょ」
K「向こうがこっちに来てプレゼンするなら?」
S「英語」
K「あ,どっちも英語なんだ。アメリカと日本の1対1でもどっちも英語なの,日本不利すぎん?」
S「確かに」
S「いや,でもそれはもう仕方ない」
K「仕方ないんだ」
S「もうビジネスの世界ではそれが習慣になってるから」(言い忘れてましたが,彼らは中2です笑)
K「じゃあビジネスの話一旦やめて,ALTのBrown(仮名)いるじゃん?たまに教室入ってきて英語でみんなに何か喋って帰って行ったりするじゃん?あれなんで英語で喋ってるの?」
S「え,Brownの母語は英語だから」
K「〇〇(生徒の名前)この前『中国人まじムカつく。日本住むなら日本語勉強しろよ』って言ってたじゃん。Brownは英語でいいの?」
S「あーー,確かに英語だと何も思わないですね。なんでだ?」
K「君らみんな日本語喋れるやん?さっきの『一番話されてる』の理屈で言うと,この教室では日本語が共通語でしょ?Brownは日本語ができなくてこの教室で困ってるようには見えないんだけど」
S「…」
K「この教室に中国人が入ってきて,頑張って日本語でコミュニケーション取ろうとかせずに中国語で話しかけてきたら?」
S「それはムカつく,うざい」

K「なんでBrownの英語はいいの?英語の授業中でもないのに日本人30人の教室に入ってきて英語で喋りかけてきて,みんなは一生懸命何か答えることを強いられるじゃん」
S「確かに」
K「Brownは母国に財力と武力があるから英語で喋ってもいいと思ってるのかな?」
S「そこまでは考えてないでしょ,さすがに」
S「でも自分がいるとこでは英語で当たり前って思ってるかも」
(ちなみにBrownは実は日本語堪能で職員室では可能な限り日本語でコミュニケーションを取っているという事実は後から伝えました)

こんな調子で,英語についての生徒たちの固定観念を徹底的に疑わせるようなやりとりを30分ノンストップでやりました。脳みその疲弊が凄かったですが,この授業で生徒達には,言語と政治・ビジネス・権力・イデオロギーといった問題をなんとなくでも,本当になんとな〜くでも,感じてもらえたかなと思います。英語という存在が政治や経済のレベルを超えて,個人個人のやり取りの形まで規定していることもなんとな〜〜〜く。身近にいるALTを話題に出すのはちょっと乱暴だったかもしれませんが。

授業のラスト5分,(正直,話し合いを誘導していくことにも疲れたので)大学受験の話に少し戻り,英語力による格差の話,その格差を生んでいるのは英語が出来ない人ではなく出来る人達ではないかという話,だとしたら今このクラスで英語を頑張って出来るようになりたいと思ってる何人かの人にはどういう英語話者・英語学習者を目指すのか考えてみてほしいという僕の思いを一人語りしました。

授業終了のチャイムの時,僕(と英語を頑張る気満々で頑張っているある生徒)は涙目でした。
大学時代から抱いていたモヤモヤを生徒とのやりとりを通じて言語化したことによる解放感,色々話しているうちに溢れ出してきた英語非母語話者としての劣等感・虚無感,言ってしまえば全ては僕の個人的な想いなのにそれに生徒を付き合わせてしまった罪悪感,でも英語を出来るようにさせてやろうと教師が頑張ってるとしたらそれも同じ押し付けかという謎の安心感,中2の段階でこの話をすることは正しかったのかという不安感…といった複雑な感情が混ざり合った感じでした。

そして多くの生徒がどこか虚ろな表情でした。それはつまらん授業をした日のそれとは違って,頭を働かせまくって熱くなったエンジンを一旦冷やしているような感じ。
今モヤモヤしてる人もいるかもしれないけど,そのモヤモヤのまま家に帰ってください。でも車にはちゃんと気をつけてください。終わります」で授業を締めました。

声の大きい(文字通りかつ比喩的)数人の生徒ばかり発言し,僕も話し合いを全力注いで誘導し,授業としての話し合いの質は決して褒められたものではないですが,僕が英語教育に関わっていく以上,これは必要な時間だと思いました。

こういうことを考えていると,目の前の中学2年生より自分の方がずっと「中二」っぽいなとも思いますが,この記事を読んでくださった英語教育に関わる皆さんの中にも何か今思うところがある方もいるのでは,と思います。
是非,このような拙い記事のコメント欄で良ければ言語化の場所としてご活用ください。

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