英語を教えることの後ろめたさ

前回の記事で,英語を教えることへの後ろめたさを大事にしたいみたいなことをちょろっと書きました。

結構この1,2年ぐらい思ってることなんですが,ちゃんと文章にしたことがほとんどないので,前回に引き続き『人類学・社会学的視点からみた過去,現在,未来のことばの教育 言語と言語イデオロギー』(佐藤・村田, 2018)の力を借りながら自分の思考を紐解いていければと思います。

また,一人では何も動かせそうな気がしないこの世界で,それでも一人の教師として何かしらの思いを抱えながら教育に向き合うことの意義を少し考えたいと思います。

相変わらず長くなってしまったので,先に要約を置いてみます。

要約

日本の現実として,「外国語教育」がほとんど「英語教育」と同義であること。オーストラリアの外国語教育界で見られる悲しい現状が日本でも起こり得ること。そういった問題は自分の感じていた「英語を教えることへの後ろめたさ」をより明確にしてくれた。僕はその後ろめたさを大切にして,その複雑な感情を丁寧に実践に落とし込んでいきたい。日本の外国語教育を良くするためには,一人一人の教師が自分の観を大切にして,しっかり実践に落とし込んでいくしかない。そういう言葉はただの綺麗事ではないはず。

「外国語」=「英語」の非自明性

世界の多言語性は明白である。3000万人をこえる第一言語話者/第二言語話者数を抱える言語は30を優にこえ,第一言語話者1億人超でさえ10をこえるとされる世界が,「英語化」でくくれるはずがない。これら大言語話者集団が半世紀程度で消失することはなかろう。グローバル化がアメリカ化ではないことが明白であるように,世界が依然として多文化空間でありつづけていることはいうまでもない。(ましこ, 2018, p. 27)

前回の記事で途中省略しながら引いた部分ですが,改めて今度は一段落丸々置いてみました。論文だったら"too long citation"とか言われるかもです。

日本では「外国語」と言ったらやっぱり「英語」が一番に思い浮かぶ人がほとんどでしょうし,欧米人っぽい見た目の人には(日本語は通じず)英語が通じると短絡的に思ってしまう人も多いでしょう。自分も2回ほど街中でカタコトの日本語で話しかけられたことがありますが,「英語で話してあげた方が楽だろうな」と一瞬思ってしまった経験があります。

まぁこの話は前回も触れているのでこれ以上深掘りはしませんが,「そもそも『外国語といえば英語でしょ』と思ってしまっている時点で,ある種のイデオロギーに呑まれていますよ,一度立ち止まって考えてみませんか?」という話です。

英語圏の外国語教育と日本の外国語教育

佐藤・村田(2018)の第3章では「学習者の社会階層と日本語学習」という章題で,岡野かおりさんがオーストラリアの公教育での「英語以外の言語」の学習/教育について論じています。

最初この章を読んだ際,自分は一度も蛍光ペンを使いませんでした。日本の外国語教育のことばかり考えている自分にとって,オーストラリアの英語以外の言語の教育がどう関わるのか分からなかったのです。
しかし,(読書会の資料を作らなければいけなかったので,なんとかハイライトを探そうと)もう一度丁寧に読み返してみると,著者にその意図があったかどうかは分かりませんが,日本の英語教育への警鐘のように思えてきたのです。

まず,オーストラリアでは日本語を含む「英語以外の言語」というのは医学部や法学部など難関大コースに進む学生にとって高得点を狙うための都合の良い道具になっているという現状があるそうです。本章の最も大きな論点は,恐らく,英語以外の言語の学習権が高学力層・富裕層に限られてしまっているという,言語を学ぶ権利の不平等性です。

ただ,それ以上に気になったのは,外国語が進学のための道具と化した結果,「中国語を話せるバックグラウンドを持った子と一緒に比べられるのは不公平だ」という主張が為され,「第一言語としての中国語」「バックグランド生徒の(継承言語としての)中国語」「第二言語としての中国語」という3種類の中国語科目が生まれたということです。(これは欧米系の言語科目については同様のことが起こっておらず,アジア言語話者・学習者への差別という見方もあるようですが,ここでは一旦置いておきます。)

この事実から想像され得るのは,益々受験のための道具となっている日本の「英語」の悲惨な行く末です。外部試験導入のゴタゴタも記憶に新しいですが,今の日本はとにかく受験のためには英語,英語。塾でのアルバイト歴も約5年半になる自分も「英語できりゃとりあえず安定して上目指せるから」なんてことも言ってきました。
そんな日本で,「英語圏への移住経験がある子はずるい。そういう子には英検準1級以上の取得を課さないと不公平だ!」と言い出す生徒・保護者がいないと言い切れるでしょうか。むしろ,かわむら的には「いる」と言い切りたいぐらいです。

まだまだ恐ろしい未来は想像できます。オーストラリアの話に戻りますが,外国語がエリートのためのものと認識された結果,学力の低い生徒らに教師が外国語の授業を履修することを勧めない,あるいは引き止めてしまうそうです。

・・・。さぁ,日本に帰ってきました。どんな未来を想像したでしょう?

「君は大学には行かず就職するんだよね?じゃあ英語は取らない方がいいよ」

「君には英検2級は厳しいから,別のルートで受験した方がいい。英語以外の科目を勉強しなさい」

今は,「一億総英語必要と勘違い時代」なので(言い過ぎ?),「絶対に英語使わないし,興味もないんだけど」という子にも授業をしなければいけません(それはそれで苦しい)。

でもこれが今後,英語は受験のためのもの,英語は勉強が出来る人のもの,となれば,今度は英語を学びたい人も学べない時代が来るかもしれません。

今の僕には未来を予測する力がないのでなんとも言えませんが,翻訳機等の進化もあって「全員に英語必要って,めっちゃ大袈裟やない?」と気付く人が増えれば増えるほど,「将来英語を使ってビジネスしてくれそうな一部のエリートだけに英語教育を。それ以外の人間に外国語教育なんぞ不要だ」となるかもしれません。(「みんなにもっと緩やかで自由な外国語教育を」となる希望も捨ててはいません。)

序列主義や競争を煽るような外国語教育はどこまでエスカレートするのか。英語教師はこの流れに(少なくとも傍目には)無抵抗のまま英語を教え続けていていいのか。

僕の答えは,"Probably, no."です。

「一人一人が意識しよう」は綺麗事か

今の僕は発信力のある人間ではないので,ここで書いているようなことをまずは自分一人で実践していくことしかできません。

院生時代に同期や学部の後輩と読書会をしていた時から,幾度となく「難しいけど,ここにいる一人一人が…」というフレーズを使ってきました。本を読んで知った_考えたことには確かに価値を感じるし,頭の中で想い描いているような教育がしたい。でも,現実はきっとそう甘くない。何度も通って踏み固められた道のように,スルーっとその思考回路を通って行き,最終到達点はいつも「でもまずは,ここにいる一人一人が…」でした。

これがどこか逃げているような,現実に負けないけど劇的に変えようとするでもない折り合いをつけているような,という感じがしていました。

でも,前回から書いているような内容について,本当に今心から思うことは「まずは自分が意識して取り組もう」ということ。決して孤独な戦いではなく,僕をこういう考え方に連れてきてくれた多くの仲間や,先人達の多大な積み重ねが支えてくれています。

そして何より自分達が意識して実践を積み重ねることで,外国語教育の流れを良い方向に持っていけるんじゃないかと最近本気で思うのです。

(この先,頭がお花畑だと思われるかもしれませんが,こう考えることでモチベーションを高く保てているのも事実なので,最悪お花畑でもとりあえず良いです。)

昨年,『英語教師のための実践研究ガイドブック』(田中 他, 2019)という本が出ました。教室での子どもたちの学びをもっと深めたい,もっと良い英語の授業をしたいという教師の想いに,実践研究のノウハウを提示することで応えようとするものです。
また,2019年の中部地区英語教育学会 石川大会では,この本の編者である高木亜希子さん(青山学院大学)がコーディネーター,藤田卓郎さん(福井工業高等専門学校)がファシリテーターの一人を務めて「教師による実践研究の方法 −教師の成長と授業改善を目指して−」というワークショップ型の問題別討論会が開かれました。

『社会言語学』誌では,コンスタントに言語の不平等性,言語イデオロギーに関する論考に加え,英語教育に関する論文も見られます。(まだ収められている論文のタイトルを見て気になる2刊を注文しただけの段階なので,一言コメントみたいなことしか書けませんでした…)

こうやって複数の学会で,実践知と理論知が噛み合わさっていくことで,少しずつ外国語教育全体の流れが変わっていけば,と思うのです。

「英語は英語で」に繋がったようなインプット仮説,アウトプット仮説,コミュニカティブ・アプローチもそれに基づく実践があったからこそ大きくなったんだろうと思うと,教室での実践無くして大きな流れの変化は作れないはずなのです。(そう信じたいのです。)

だから,一人一人が意識し続ける,意識して実践し続けるしかないのだと思います。綺麗事ではなく,一つの事実としてそう思うのです。

締めの言葉として,上で紹介した岡野さんの章の最後の一段落をそのまま引用させていただきます。これは,オーストラリアの日本語教育や「英語以外の言語」教育に対するコメントですが,多くの日本の英語教師が自分事として捉えられる文章だと思います。

この循環的傾向に変化をもたらすために,教師が教室レベルで何ができるのかを考える必要があろう。まず,日本語学習に関する上記のような外敵条件・一般的認識・生徒個人の高度の相互作用の存在を認識することから始まり,幅広い学習者層に魅力のある授業,選択教科を決めるときの助言,学校内で教師集団にたいする働きかけなど,検討の余地がありそうだ。そして,今一度中等教育における「英語以外の言語」学習は何を目指すのか議論するのも良いだろう。(岡野, 2018, p. 71)

参考文献

岡野かおり (2018). 「学習者の社会階層と日本語学習」佐藤慎司・村上晶子(編)『社会学・人類学的視点からみた過去,現在,未来のことばの教育 言語と言語教育イデオロギー』59-73.

ましこ・ひでのり(2018). 「言語教育/学習の知識社会学」佐藤慎司・村田晶子(編)『人類学・社会学的視点からみた過去,現在,未来のことばの教育 言語と言語教育イデオロギー』27-58.

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