英語を相対化する

「『英語を一言語として相対化する態度』に繋がる英語授業に興味があります」とは言っても,「英語を相対化する」ってどういうことなんでしょう?
英語を「アメリカの言葉」と捉えている学習者がいるとしたら,「国際共通語としての英語」とか世界中の様々な地域のいわゆる「英語変種」とか,そういう話をしてあげればいいんでしょうか?
それも大事なことだと思いますし,れっきとした「言語教育」だと思います。

ただ,「英語を一言語として相対化する」と言ったとき,そもそも「言語」とはどういうものかが分かっていないといけないんじゃないでしょうか。そんなことを思っていたある日,大学時代の同期・後輩・他大学の後輩(?)との読書会を企画し,『人類学・社会学的視点からみた過去,現在,未来のことばの教育 言語と言語教育のイデオロギー』(佐藤・村田, 2018)を手に取りました。
まだ第1章から第3章までしか読めていませんが,この記事では特に「英語を相対化する」ということの理解に繋がりそうな,自分にとっての新たな視点を中心に一旦まとめます。
文献の流れのまま辿ると,読書会資料を書き直す作業みたいになりかねないので,初めてこの本を読んだ時の自分の思考の巡りを大事にしつつ書いていこうと思います。

言語の流動性・混合性

「言葉は変化する」というフレーズはよく耳にします。そういうフレーズを聞いて多くの(言語について少し詳しい)人が真っ先に思い浮かべるのは文法化や語彙の意味拡張でしょうか。あるいは大母音推移なんてものもありますね。
これらは言葉を通時的に(過去から現在に向かって)見て浮かび上がる変化です。

では,「人類学・社会学的視点から」言葉を見ると,どう捉えられるのでしょうか。そこでは「アイデンティティ」の問題も関わってきます。

アイデンティティはただそこにあるのではなく,コミュニケーション・言説実践を通して構築されていくものでもあるのである。(中略) 言語,アイデンティティは個々人が積極的に作っていけるもの,変えていけるものだと考えられる (佐藤・村田, 2018, p. 10)

本論では「学習動機」に代わって「投資」という概念を取り入れたNorton (2000)や三代 (2012)の論を辿って,ある言語を学習するという行為自体が社会的で動態的なものであると語られています。ある言語を学習する主体となることは,その人のアイデンティティの一部を形成するでしょう。

また,学習とアイデンティティと言えばということで,状況的学習論 (Lave & Wenger, 1991)に照らすと,学習者としてのアイデンティティを形成してくために,文化・社会・コミュニティと言ったコンテクストが必要であり,同時にアイデンティティを形成するコミュニケーションがコミュニティ全体の変容を起こしていくとされています。

これだけでなんとなく分かった気にもなれるかもしれませんが,これをより深く理解するには「コンテクストとは何か」を捉える(かわむらにとって)新たな視点が必要です。

コンテクストの二側面

言語コミュニケーションにおいてコンテクスト(しばしば,文化,社会とも言われる)は,2つの点で注目に値する。一つはコミュニケーションの適切さを測る規範的要因であり,もう一つは将来のコミュニケーションの適切さを生み出す創造的役割。(佐藤・村田, 2018, p. 5)

これまで「言語使用の正しさなんてコンテクストによるんだし,学校で扱うテクストにもっとまともなコンテクスト欲しいよね」なんて得意げに言っていた自分も,実はコンテクストの一側面しか見えていませんでした。

今現在の言語使用が適切かどうかを判断する基準がコンテクストであると同時に,将来の言語使用の適切さを創造するのもまたコンテクストなのです。

かわむらも「『了解です』って敬語のつもりで言ってることぐらい分かるんだから,後輩や部下の『了解です』を敬語として受け取る大人になろう。みんながそうなれば『了解です』は敬語になる」とは何万回も言ってきました。

でも,それを英語教育の視点で真面目に考えた経験は,自分の思い出す限りほとんどないのです。これについてはもう少し時間を置いてから改めて書きたいと思います。

「学校で学ぶ英語」と「学校で英語を学ぶこと」の非自明性

この本では「言語コミュニケーション教育における人類学・社会学的アプローチの意義」を以下のように述べています。

私たちの多くがこれまで自明視してきた社会制度,地理的,文化的,歴史的に作り上げられてきた規範を問い直す姿勢,そして,内省・振り返りを行い,自分が今後どう振舞っていくか考えていくための視点を提供すること (佐藤・村田, p. 4)

僕の周りには,自分自身を含め,「ただ教科書の本文とか文法を一方通行で教えるのは嫌」とか「ちゃんと使える英語を身につけさせたい」とか「もっと英語で思考を深めたい」とか,自分たちの受けてきた「当たり前」にも見えた英語教育を繰り返したくないという想いを持っている教員・学生が沢山いると思います。言い換えれば,「どんな英語を教えるか」ということについては,その非自明性を多くの人が認識しているだろうと思えるのです。

しかし,人類学・社会学の視点はもう一段深いところまで我々の内省を促してくれます。「なぜ,英語なのか」という問い直しです。

(前略)世界が,「英語化」でくくれるはずがない。(中略)グローバル化がアメリカ化ではないことが明白であるように,世界が依然として多文化空間でありつづけることはいうまでもない。(ましこ, 2018, p. 27)
日本列島上で定住者や留学生等が常用している北京官話・朝鮮語・英語・スペイン語・ポルトガル語などは,「外国語」なのだろうか。(ましこ, 2018, p. 45)

なぜ「外国語」=「英語」なのか

そもそも英語は「外国語」なのか

考えたことがないとは言わないものの,「英語を一言語として相対化」しようとするとき,この深さで「英語」というものを問い直す必要があるのではないかと思います。
また,「国語科との連携」などという時に「国語」とは何なのかを問い直すことも同様に必要です。

個々の英語教員の視点の転換の必要性

コンテクストの「適切さを生み出す創造的役割」を認識し,「外国語」「英語」という概念の無自覚な非自明性を,教師自身が問い直す。このことが「英語を一言語として相対化する態度」に繋がる第一歩ではないでしょうか。

そんなことをすればきっと,自分が英語を教える意義について大きな迷いを抱きながら教えなければいけない日もあるでしょう。

でも,その英語を教えることに対する「後ろめたさ」みたいなものを,仮に持ったとすれば,それは大事にすべき感情,あるいは思考だと思います。

この部分については,オーストラリアの「英語以外の言語」の教育・学習状況について論じている第3章(津田・村田)を見直しながら書きたいのですが,既に長々と書きすぎているので,そこは次の記事にて挑みたいと思います。

参考文献

佐藤慎司・村田晶子 (2018). 「言語・コミュニケーション教育における人類学・社会学的アプローチの意義」佐藤慎司・村田晶子(編)『人類学・社会学的視点からみた過去,現在,未来のことばの教育』三元社: 3-24

ましこ・ひでのり (2018). 「言語教育/学習の知識社会学」佐藤慎司・村田晶子(編)『人類学・社会学的視点からみた過去,現在,未来のことばの教育』三元社: 27-58


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