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慶應大学を卒業した後に勉強の大切さを痛感した新卒1年目

要約: この記事は、僕の学生時代の考えの偏りを詳らかにし、義務教育・勉強・大学が大事である理由を僕なりにまとめています。

・家で引きこもってコード書き続けた中学時代
・プログラミング必修の通信制高校入学
・ベンチャー企業でプログラマーのバイトをしていた高校時代
・慶應義塾大学総合政策学部(SFC)にAO入試で入学
・学生ベンチャーの仕事を掛け持ちした大学時代
・卒業直前にフリーランスエンジニアとしての仕事を始める
・卒業後は数ヶ月フリーランスを続け、セキュリティ企業に正社員入社

この経歴を見ると、受験勉強を頑張ったり、大学であまり勉強してこなかったように感じるかもしれない。

学生スタートアップ界隈・起業界隈は、「学校の勉強より、仕事ができるかだ」という考えが強く、学校の勉強は切り捨てても良いと考えていた。

この記事は、学生時代勉強してこなかったけど、勉強が必要だった。という後悔の話ではなく、大学で学んできたことや、属していたコミュニティから勝手に得た知見が、いつの間にかすごく役に立っていたという話です。

※ セクションごとに関係なさそうな話をしますが、最後にビシッとまとめます。

大学時代に学んで良かったこと

法律

自分は起業も視野に入れていたので、特に労働法と知的財産に関する法律の授業を取った。

当時自分は学生スタートアップで働くことが多かったが、労働法の授業を受けてから、学生スタートアップではほとんど労働法が守られていないということに初めて気がついた。「業務委託はプロフェッショナルの証」「契約書に明記すれば何でもルールを作れる」「成果を上げない人には報酬は支払われるべきではない」「時間ではなく成果によって報酬が支払われるべきだ」など勘違いしていたが、そんな世界は誰も幸せになれない、苦しいだけの世界であり、自分の考えは偏っていたと実感した。

この社会では、お金や権力などで人々の上下関係がはっきりしている。お金を稼がないと生きていけない世の中だが、もともとお金を持っていて、働かなくても良い人々もいる。労働者が一方的に搾取されたり、解雇されて切り捨てられたり、理不尽な長時間労働をさせられるような社会だったら、実は昔の奴隷がいた頃と変わらない社会かもしれない。現代日本では国民の自由と権利が保障されてはいるものの、金銭格差によって奴隷と呼ばれない奴隷を生み出し、資本主義社会ではそのことに皆納得している。

だからこそ、国家は教育の機会を皆に与え、労働者の立場を守らないといけない。そのためにも、法律の知識は誰もが持つべきだし、その知識が自分の身を守ることにつながる。

独学だと厳しい領域のコンピュータサイエンス

自分は中学生の頃からプログラミングを始めたが、それはWeb開発とアプリ開発のみで、このままWebエンジニアとして働くものだと考えていた。しかし、慶應SFCの4つの研究室に入り、AI・ブロックチェーン・サイバーセキュリティの分野を研究してみると、自分の独学のスタイルでは手を出しづらかったところを調べる必要があり、基礎が着実に固められている実感があった。

正直Web開発やアプリ開発は、難しいことを考えなくても、100%理解しなくてもシステムが出来上がってしまうようなことはよくある。実装が早いエンジニアでも、本当の意味で基礎が欠けているケースはよく見かける。「未経験でもプログラミングを学べばフリーランスになれて人生逆転できる」みたいな情報に溢れているが、短期間で習得した技術は到底技術と呼べるものではない。基礎を固めることの大事さは、大学だからこそ得られた教訓だった。

自分は卒業後、セキュリティの業界に進むことになったが、大学でAIやブロックチェーンを学んで得られた知識は決して無駄にはなっていない。技術的なバズワードになっているものだが、その技術の仕組みが社会に浸透するとは限らない。流行りの技術の凄さを正しく判断する力がついたと言える。

英語

英語は高校時代全く話せなかったが、大学卒業までには日常英会話と英語の開発ドキュメントを読んだり書いたりするぐらいにはスキルアップした。慶應大学の卒業生としては全然低いレベルではあるが、これは日々自分の仕事の役に立っている。

海外から英語のスカウトメールが来たりすることもあるし、海外製品に脆弱性を報告したり、報告した有名ソフトウェアの脆弱性の解説記事を世界に発信するときにも使える。

卒業してから、第二外国語として中国語をやっておけばよかったと感じている。脆弱性情報を調べるときに、中国語で書かれていることはよくある。世界で戦っていくためには、英語だけでは不十分であることを実感した。

統計

統計が役立つのは、データサイエンティストだけではない。「数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を使う」という言葉があるが、数字を使った嘘つきはインターネットや新聞、テレビで毎日発信し続けている。政府ですら、直感的に気付きづらいところで数字を使って多く税金を取ろうとしている。

僕が大人になってから役に立った数学と統計の考え方は、

・この社会の傾向は、超多変数の関数によってある程度導き出せる
・相関関係が因果関係とは限らない
・どの傾向にも外れ値は存在する

ということ。具体的に言うと、

この社会の傾向は、超多変数の関数によってある程度導き出せる

例えば、学歴が高い方が生涯収入が高くなるという説があるとして、ある程度の相関関係があるとする。でも、人々の生涯年収をより正確に予想するためには、学歴と生涯収入という変数以外に、親の収入、親の学歴、家庭環境、IQ、子供時代にありがとうを言われた数などが、変数として入ってくるかもしれない。

この世界では、「これをしたら人生逆転できるよ」みたいなシンプルな極論がリツイートされやすいが、実際そんなに世の中はシンプルではない。実際には論じられていない何百個もの変数がある。そのことに気づくためにも、大学に行って統計をある程度勉強すると、インフルエンサーの極論に惑わされずに、成果を上げることができる。

相関関係が因果関係とは限らない

金持ちはみんな高い財布を使っている。だから、高い財布を買えばお金持ちになる。という説は因果関係を逆に捉えてるにすぎない。正確には、金持ちはお金があるから良い財布を買えているということだ。

新聞やニュースでは、こことここに相関関係がある!のようなことが書いてあることが多いが、実際にこれを因果関係と誤解してる人は多い。相関していても、疑似相関であって本質を突いていないことも多い。その関係を巧みに論じて、嘘を信じさせるのが、今のワクチン関係や陰謀論のファイクニュースの常套手段である。

現代では、新型コロナワクチンのような生きるか死ぬかを決める情報がある。そんな大事な情報を改変し、お金儲けのためにフェイクニュースとして流しているメディアが数多く存在する。彼らに利用されないためにも、統計の知識は大学で少しでも勉強すれば、正しい判断ができる。生きるか死ぬかがかかっている。

どの傾向にも外れ値は存在する

「〜だったのに社長として成功しました」「〜だったのに年収3000万円になりました」と言って、インフルエンサーとして極論を発信する人がいるが、そんな人は外れ値の一つに過ぎない。いわゆる例外というやつ。

そして僕の経験上、外れ値の言う事は信じない方がいい。その人の前提条件がまるで違う。そもそもインフルエンサーが言及していない他の要素(変数)が重要であるからだ。シンプルに伝えるために、変数を少なくして伝えた方がリツイートされるため、敢えて隠しているに過ぎない。

自分の属していた界隈からのバイアスと、自分の自信の無さからのバイアス

そんなことを学生時代に学んできた中で、自分が今まで信じていた考えはバイアスがかかっていると気づいた。

僕が学生時代にに信じていた説は下記の通り。

・高学歴は勉強しかしてこなかったから仕事できない
・学歴は役に立たない
・ごく一般的な普通の人生はつまらない
・大学中退はかっこいい
・発達障害を持つ人は必ず何かの才能がある

実はこれらの偏った考えは、自分の属していた界隈からのバイアスと、自分の自信の無さからのバイアスによって信じていたものだった。

好きなことを極めることがかっこいい

大学時代、僕の周りには、好きなことを全力で頑張るという人がたくさんいた。僕らは、大学の単位はあまり取れていなかった。

僕らの間では、一点集中しろ、逃げ道を断て、という風潮が強かったが、今考えるとそれには理由がある。

勉強がつまらないという理由で、好きなことだけに集中するという自分が正しいと正当化し、共感してくれる同じような人としか話してなかったからだ。自分の逃げたい気持ち、逃げない人へのコンプレックスによって、それを肯定する情報しか得ようとしてなかったのが、バイアスである。

好きなことを極めることはかっこいいと今でも思う。しかし、人生のために必要なことだったら嫌なことでも努力する人は賢い。それは両方否定されるべきことではない。

勉強ができなくて優秀な友達

僕の周りには高校時代から天才がいた。数学の天才、ビジネスの天才、プログラミングの天才、アートの天才、映像作りの天才、ハッキングの天才、大抵ADHDやASDのような発達障害を抱えていた。そして、自分にも明らかに発達障害の傾向があった。

学生時代の自分は、安易に「発達障害 ⇨ 天才」という仮説を立ててしまった。しかし、彼らが天才で優秀であると認められたのは、結果論に過ぎない。彼らの才能は社会から評価されるものであっただけで、「社会から全く評価されない世界一の才能を持つ人」もいるし、それが見つかっていない人もいるし、見つからないまま死んでしまう人もいる。そもそもそんなポジティブなものだったら、障害として認定されていないはずだ。

だが、自分は発達障害の傾向があり、自分が特別な存在だと信じたかったから「発達障害 ⇨ 天才」の説を信じた。

それは、自分の属していた界隈からのバイアスと、普通とは違う人生を生きる自分の自信の無さからのバイアスの両方によるものだ。

発達障害を持つ人たちに才能を持つ人が一定数いるのは事実だが、その前提が広まってしまうと、特性で困っている人たちがより辛くなってしまう。だから、ちゃんと一人一人に合った環境と支援が必要だ。

ちなみに先日発達障害の簡易的なアンケート検査を行ったが、数年前に同じ検査をやったときと真逆の結果が出ていて、グレーゾーンとすら呼べないほどADHD/ASDの傾向なしの結果が出た。結果が変わっただけなので、本当のところは分からない。だけど、今は自分が本当に発達障害なのかどうかはあまり気にしていない。

自分が一般論や普通という存在を否定していたのは、これらの心理的バイアスが原因である。大学で学んできたことにより、そのバイアスを認識できたことは、今までの人生の中で一番の成長かもしれない。

才能があっても一般の確率からは簡単には逃れられない

学歴社会は才能があっても無関係じゃない

学生時代には信じたくなかったことだが、社会に出ると、誰よりも実力がある人にチャンスが与えられないことが多い。個人事業主が良い部屋の賃貸の審査に通らないこともあるし、企業のエントリーフォームに応募できないこともある。実力があるのに、そうなってしまうのは、社会人はみんな忙しくて、一人一人を見ている時間はないからだ。

社会人になると、1人の天才を採用するより、10人のそこそこ優秀な人を採用することが求められる。一人一人の長所を細かく見ていたら、1人の天才は見つけられるかもしれないが、そこそこ優秀な人を10人も採用できなくなるかもしれない。

チャンスは公平に与えられるべきという理論もあるが、会社は利益を上げるために人を採用するに過ぎず、利益が上がっているのであれば、天才を一人取りこぼしても良いと考えるのが自然だ。それは企業の判断に委ねられて良いと思う。

才能は学歴社会を完全に乗り切れるものではないため、天才でも学歴はあった方がいい。大学は天才は行かなくても問題ないという理屈もあるが、僕はできるだけ行った方が有利に物事を進められると感じている。

才能がある人でも、学歴があったら3ポイントプラスされる

実力主義のITエンジニア界隈でも、高い学歴はプラス3ポイント加点される。減点されることはない。それは、人々は無意識のうちに社会的な信用を求めてしまうからだと思う。実際にかけられる言葉やリアクション以外でも、人々の無意識に影響する。その現実には大学卒業後に初めて気づけるから、せっかく大学に入れたのに、大学を中退するという選択肢はあまりお勧めできない。これは過去の自分に一番伝えたいことである。

日本は恵まれている。だからルールを知らないといけない。

文系科目にも価値がある

大人になってから、歴史、地理、そして何より国語の重要性を痛感する。プログラミングさえやってれば稼げるんだし、一般教養なんていらないいらないと言っていた過去の自分をビンタしてコチョコチョしたい。

歴史は過去に世界で発生した過ちを二度と犯さないために、自分が今どこの政党に票を入れ、どの情報を信じるかに関わってくる。これから人類が世界史を本気で勉強したら、今後起こるはずの戦争を止められるかもしれない。

地理は世界中の人と友達になるために必要である。相手の宗教や文化によっては、決して言ってはいけない言葉、出してはいけない料理があったりする。海外旅行を楽しむつもりが殺されてしまうこともある。まだ現代では人権が守られていない国はたくさんあるし、日本だと軽い罪なのに、他の国では即死刑になることだってある。世界は僕らが思っているよりはるかに恐ろしい場所だから、地理は絶対に必要。

そして何より国語の勉強はとても重要。今SNSで誹謗中傷をしたり、炎上に加担して生きづらい世の中を作っているのは国語力のない人だ。国語力がないと、文章の中から文脈を無視して気に障る単語だけに反応したりしてしまう。発信するためだけではなく、読んで意思決定する上で、国語力は必ず必要。

そして、これらが必要だと言ってる僕自身、そこまで勉強したわけではない。一応不自由ない意思決定ができる程度には学んできたつもりだが、僕がスキップした義務教育の重要さが、大人になってようやくわかった。

学校は稼ぐスキルではなく、強く生きる力を手に入れる場所

ここまで書いたように、学歴は社会を渡り歩く上で便利だし、学校で勉強することも役に立つ。恐らく、日本の義務教育ではテストのために勉強をするという意識が強く、テストは無意味だから勉強も無意味と誤解してる人が多いのではないか。専門的な勉強だけが生きるために必要なのではなく、義務教育で学ぶような基礎的な勉強は無意識に社会で役に立っている。

衣食住が揃って仕事があることは当たり前じゃない

僕が子供の頃は、大人になったら普通に仕事をして、普通の家に住んで、普通のご飯を食べるのが普通だと思っていた。だが、その普通の生活を手に入れるのは、決して簡単ではない。学歴や経歴によってチャンスすら与えてもらえないことがほとんどである。

日本はまだマシである。未だに政府がめちゃくちゃしている国はたくさんあるし、人権を無視した拘束や人体実験、人身売買、拷問などは存在する。僕が小学生だった時、世界はこれからどんどん繋がり、平和になって、人々は幸せになるものだと思っていた。だけど2022年現在この有様になっている。

だから、残酷な世界の中で、日本という比較的恵まれた国に生まれて、義務教育を無償で受けられる状況なら、少し真面目に勉強した方が、きっと社会で強く生きれる大人になれると思う。

まとめ

僕がここまで関係のないような複数の話題について言及して伝えたかったのは、

一般教養は大事
一般論は馬鹿にできない
極論には明らかにバイアスがある
誰しも自分を正当化するために、情報にバイアスをかけてしまう。

ということから、この社会に流れる情報を判断して意思決定するために

統計の知識
小中高の基礎科目
語学

が必要で、それをしないとあらゆる場面で見えない格差が生まれてしまうよ。

義務教育で習うことも価値があるよ。

というお話でした。長文読んでいただきありがとうございました。




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