ロックバンドができるまでの話
juJoe(ジュージョー)と読む。
『ju』はスウェーデン語で『it's』とか『The』とかいう意味合いがある。Joeは矢吹丈のJoeだ。いくつになっても、ジョーみたいになりたいものだ。
僕は「もう二度とロックバンドはやらない」と思っていた。
「バンドにまつわるキツイこと」に疲れ果ててしまったからだ。7年で15枚のリリース、600本以上のライブ。テレビ出演にフェス出演、コンテスト優勝、チャートイン。
自分の音楽的才能は絞り尽くした。やれることはやりつくした、そういう実感があった。
2018年4月。僕のQOOLANDというバンドは解散した。
二十代というリソースを音楽に捧げて良かった。こんな風景が見れる存在になれるとは思わなかった。
ただその代償はデカかった。「夢追い人の成れの果て」は綺麗なものでもない。身も心も疲れ果てていた。
二年間断酒していたが、解散を決めた日をキッカケに、氾濫した河川の如く呑み出した。
起きたらまず缶ビールを開けるのだ。カーテンを開くよりも先にプルタブを開けた。二日酔いを新しい酔いで塞ぐ毎日だった。
しかし引退してからの暮らしは、穏やかで豊かだった。連続飲酒は止まらなかったが、バンド活動中に比べれば平和だった。
「精力的なロックバンド」に比べたら、アルコール依存症など健康体同様だ。引退してからの幸福度は人生最高レベルに達した。
「これぞ最高の暮らし!」を地で行っていたし、順調に人生を消化していた。
ビジネスにも挑戦したかったから、株式会社も起こした。貿易や投資、飲食に建築など、複合的に進めた。金銭的な苦痛からも解き放たれた。音楽ソフトに比べたら簡単だった。「安息」を初めて味わった。だが、7月に頭がおかしくなった。
記憶が飛び飛びになりだした。
気が付くと知らない街にいたり、二日間寝なくても平気だったり、「大阪10時!東京11時!」のスケジューリングを組んでしまったりと、完全に壊れてしまった。躁が爆発したのだ。
かと思えば、急に打ちのめされた感じになり、しゃがみ込んで、しばらく立てなくなったりもした。
ある日、道を歩いていて、電信柱から次の電信柱まで歩けなくなった。それをする気力がわいてこないのだ。だから電柱に体を預けたまま、ただジーッとしていた一日がある。
精神病の中で自殺に至るのはうつ病だけらしい。死ぬのは嫌なので這うようにして病院に行った。
友人の行っていた『ゆうメンタルクリニック』という新宿の病院へと通うことになった。
「キチガイと思われたくない!精神科なんかにかかりたくない!」という方は多い。
いや、サクっと行けばいいではないか。行くといいことばかりだ。
待合スペースにいる患者さんたちは、それなりにパンチがある。
ずっと息切れしている男や、ブルブル震えているおばさん、スティービーワンダーのように首を振りまくっている中年などが揃っている。
妙な安心感を覚えた。「俺だってこれに比べりゃまだマシ」とホッとする。「仲間だ」という連帯感も生まれる。
町や学校、職場に病んでいるひとは少ない。
病院という位相の中にのみ、病人は隔離されて存在しているのだ。
病んだら彼らに出会う方がいい。その連帯感はストレスを軽く溶かす。病んだら病院へ行こう。
お医者さんとカウンセラーさんと治療が進んだ。投薬とカウンセリングで、おかしくなった頭を戻していった。
医者いわく、「おもくそ頑張っていたことをいきなりやめる」というアクションは、心にとってかなりの負担だそうだ。
バーンアウト症候群、双極性障害、アルコール依存症など複合的な診断が下った。
「平井さんは二度と酒を楽しめない」とも言われた。
「残念か?」と聞かれると、何とも言えない。僕は酒の味が好きなわけではなかったからだ。
酒に求めていたは、「自失」だ。何もかもがとろけていく、あの気持ち良さ、薬理的効果だけを求めていた。
過去も現在も未来もどうでもよくなって、「いつかは死ねるのだ」という平等感が酔いと共に膨らんでいく。胃が熱くなって、どんどん気が大きくなっていく。あの感覚があまりにも心地いいのだ。シラフでは触れられない領域だ。
ただ、僕はそのデスゾーンを抜ける選択をした。
何故だろう、なんだか、うまく言えないが、やはりまだ壊れたくなかったのだろうか。
カウンセラーに「リハビリぐらいのつもりでバンドをやるのはいいかもよ」と言われた。公民館のオヤジ趣味バンド程度のレベルの話だ。
僕はメンバー募集をしてみることにした。すると、そこそこの人数から連絡が来た。
しかし準備をしたり、歌を書いたり、いろんなひとと音を合わせたりしてるうちに、スイッチが入ってしまった。
「こんなんじゃ足りない」という忘れていた感覚がむくむく膨らんでしまった。
あんなに「もう二度とやらない」と思ったのにだ。
結局、僕は菅さんのとこに行った。もともと一緒にやっていたベーシストだ。
じつは菅さんとは解散のタイミングで、次も一緒にやる予定だった。しかしアレコレの事情で結局おじゃんになったのだ。
ただ、今になって思うのは「事情」なんて有って無いということだ。
「本当はやりたいんだ・・・!」と言えば聞こえはいい。不可抗力感も出て、かわいそうな自分も演出できる。
でも、そんなものは偽りだ。
だって人間やろうと思えば、何だってやれるはずではないか。「事情」がどれほど重たくても、やるやつはやる。
つまり僕が菅さんに言ったのは「やめるのやっぱやめて、もっぺんやって」という交渉である。
菅さんはもちろん次の居場所が決まっていた。プレイヤーとして上級者なのだから、誘いも現場もモリモリである。
最初はNoであった。当然である。
懇願の末に「魂の震える曲がないとやらない」というRPGみたいな展開になった。しかし曲を出すもボツであった。
そもそも僕たち二人は今まで何十曲も一緒に作ってきたのだ。
今さら「魂震えるか、震えぬか」と課されても何を書けばいいのか分からなかった。
僕はこうなったら「もうめちゃくちゃ本当のこと」を書くしかないなぁと思った。ここにきて、もはやカッコつけても仕方ない。
それで書いたのが発表した7曲である。2,3週間で一気に書いた。一筆書きのような時間だった。
これまでバンドをやってきて取り組んだ「みんなで作る!」みたいなテイストや「作品を仕上げる!」という意識など毛頭無いし、多様な音楽性なんてものも無い。リスナーだっていない。そもそもバンドが組まれていないのだ。
完全に「また一緒にやってもらうために独りで作ったもの」でしかない。
金のためでもセールスのためでもなかった。もう誰のためでもない。そんな気持ちで歌を書いたのは、何年ぶりだっただろうか。
そして魂は震えたそうな。関門突破である。
そしてドラマーだ。QOOLANDと共演経験もある。名をユウスケという。
じつは2017年末にQOOLANDのライブに来てくれて、「次が決まってないなら一緒にやりたい」と声をかけてくれていた男である。
その後、僕たちは一席設けてもいる。
でも解散発表した12月から4月の【解散するまで】の消化時間で、僕はすっかり「ロックバンド二度とやらない」に染まっていた。
つまり、これまたもう一回「やめるのやっぱやめて、もっぺんやって」の話であった。
改めてテキスト化すると、自分の身勝手さと無計画さ、行き当たりバッタリの生き様、決めた途端に恥も外聞も捨てれる厚顔無恥っぷり、手段の選ばなさにちょっと引く。
そして付き合ってくれている人間の器のデカさにビビりもする。
2018年8月からスタジオに入り始めた。リハビリ開始である。
そうは言っても現役引退していた身なので、アンプやドラムの音量に耳が割れそうだった。錆びた身体と喉を徹底的に作り直した。
10月からこれまで世話になったライブで、テストステージをやらせてもらった。
少しずつフィーリングが戻ってきた。血液にディストーションとビートのガソリンが補充されていくようだった。
11月には耳も慣れてきた。12月になると、ようやく声が出るようになってきた。
酒はまだ怖いが、あの頃よりはマシである。
QOOLAND解散時に「音楽を通すと不思議と痛みが成仏していく」と僕は書いた。今改めて思う。
音楽はすべてを救えはしない。だけど和らぐし、漢方ばりにゆるやかに効く。
多くを持っていなくてもそれぐらいあれば、ひとは充分歩いていけるのだ。
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