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大阪十三のバーに通っていた

実社会では分かりやすいこと、明確であることが求められる。 それでも世の中には、曖昧さを持ってしか話せないようなものもある。

その中にこそ、本当に大事なものがあるんじゃないだろうか。

あの頃、そんな曖昧さを求めて逃げ込む場所があった。

商店街の中にある小さなバーだった。

ジャックジョンソンがいつまでも流れていて、マスターは無口だったが、綺麗な店だった。

明け方まで飲める店が少なかったせいもあって、僕はよくここに通っていた。

この店で仲良くなったひとがいた。

中学二年生の息子がいるのに、いつも朝まで飲んでいるひとだった。

酔いがまわると、変わった言葉を使うひとだった。

よく「死にたくなくなりたいね」と言っていた。

分かりづらい言葉だった。センテンスもややこしいし、なんでそんなことを言うのかも知らない。

感嘆文なのか疑問文なのかもハッキリしない。でも僕には彼女がどこに行きたいか、どうしたいのか、なんとなく分かるような気がした。

子の親なのに、限界まで飲んでいたり、いい歳なのに変なことばかり言っていたりと、一般的に見れば、堕落したひとだったのだろう。

だけど、僕は彼女の話を聞くのが大好きだった。

「人の親」とか「年齢」といった道徳観、倫理観のカタマリのようなプロフィールを携えているのに、思春期の少女みたいにもがく姿は、新鮮だった。

あの夜、僕はずっと飲んでいた。

ひとりで日本酒を開けて、気がつくと朝焼けが東の空ににじむように広がっていた。それなのに全然飲み足りなかった。もっと飲まないといけなかった。居場所を求めるように、僕はバーの扉を開けた。

「テツさんは顔がいいからいいよね」

客は彼女ひとりだけだった。バーカウンターの真ん中で、彼女はロックグラスを傾けていた。

意味の分からない日本語に、街中ではかからない洋楽、話を聞いているのかさえ分からないマスター。

扉の外と中で、世界は完全に遮断されていた。外の世界で通用しないものがすし詰めにされているみたいだった。

「ビールください」

テツさんはチラリとだけ僕を見ると、無言でビールグラスを用意し始めた。ハイネケンのサーバーから泡が注がれていく。

出来上がるのを待っていると、彼女が話しかけてきた。

「ねぇねぇ今いくつなん?いくつになりたいん?」

何度も会っているのに、なぜか知らないひとのように話しかけてくる。

このひとと会うとセーブのできないロールプレイングゲームをやっている感覚に陥る。

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「歳は言いたくないんですけど、いくつになりたいってどういう意味ですか?」

「また、そうやって難しいこと言う。だからモテへんねんで」

今度はやけに僕に詳しいようなことを言う。

正直、彼女が僕のことを覚えているのかいないのかさえ、分からなかった。酒でまともな会話ができなくなっているのかもしれない。でも、やはり僕はこのひとが嫌いではなかった。

「はい。五百円」

テツさんの低い声と共にビールがやってきた。一杯ごとに支払うシステムだった。

僕がサイフを取り出そうとしたそのときだった。

「いいよ、出したげるから。はよ飲み」

「いや、別にいいですよ」

「いいから!」

そう言って彼女は千円札をバンとカウンターに叩きつけた。歌っているジャックジョンソンもビックリするような音だった。

「これでわたしにもビール」

彼女のビールが出来上がるまで待った。

乾杯する頃には、僕のグラスの泡はとうに消滅していた。

「ねぇ、死にたくなくなりたいね?」

「それ、前から気になってたんですけどどういう意味なんですか?」

「生きてたら死にたいなぁってなるやん?全然そうならんかったら最強じゃない?」

「最強を目指してるんですか?」

「人の親やねんから最強でいたいやん」

吐き捨てるような「最強でいたい」だった。

彼女はビールを一気に飲み干して「テツさん! ターキーのロック、ふたつ!」と、またポケットからグチャグチャの千円札を取り出した。

テツさんがボトルを用意し、僕は強制的に出された四十度のウイスキー飲んだ。度数の高い酒で喉を焼く感触が気持ちよかった。

「いや、死にたくなくなりたいですね」

「なに、わかるん?」

「いつかは……なれたらいいなとは、思ってますけど、今どのくらいひどいんかなんて、よく分かりません」

彼女の意味不明さが僕にも感染っているようだった。「関西弁は感染る」と言うが、これもそうなのだろうか。

でも僕はこの意味不明な言葉を吐く時間が好きだった。外の世界では分からないことを言うと、分からないとされたし、整頓されている情報以外、無価値だったけど、ここでは通じない言葉は市民権を得ていた。

「今どのくらいひどいんやろうなぁ」

「明日がそんなに大事じゃないぐらいですかね?」

「いや、わたし大事やし、あんたより全然マシやわ」

「だから『そんなに』って言ったじゃないですか。それに明日大事なひとはこんな時間まで飲んでないらしいですよ」

「奢っといて、なんも知らん若い男にボロクソ言われて、死にたいわぁ」

「それ、なんかズルイですよ」

「クローズです」

僕の声に被さるように、テツさんの声がした。

僕たちは一気にターキーを飲み干して、ほとんど同時に「ごちそうさまです」と言った。ふたりとも声がガサガサしていた。

扉を開けると、時間が一気に流れ出した。

まともな人々が会社や学校に向かう時刻だった。さっきまで暗くて形しか分からなかった建物の細部、窓や屋根についているアンテナなんかが鮮明に見える。

「もう完全に朝やん。なんか、ちゃんとせなあかんなぁ」

「ちゃんとしたいですね」

「ホンマこの瞬間が一番死にたくなるわ」

「死にたくなくなりたいですね」

「コンビニでビール買ってくるけどいる?」

「いただきます」

僕たちは缶ビールを飲みながら駅まで歩いた。駅には僕たちが目指していることを達成したひとたちでごった返して、朝日が反射して目に突き刺さる。

「みんな、偉いなぁ」

「少なくとも俺らの千倍は」

「ちゃんとしたいなぁ」

「たぶん、いつか、できますよ」

「通用したいなぁ」

「いつか、しますよ」

「なんで人ごとやねん」

「だって俺違いますもん」

「違うひとはこんな時間まで飲んどらんやん」

「なんか……でも、中島らもみたいでいいじゃないですか」

「せやな、らもみたいでええな」

「でもちゃんとしたらもになりたいですね」

「ちゃんとしたらもって、らもちゃうやん」

「らもに失礼ですよ」

「死んでるからええねん」

「死にたくなくなりたいですね」

「そうやねぇ」

彼女がそう言った瞬間、駅には列車が到着したようだった。

車輪がレールに噛み付いて、金属がけたたましい悲鳴をあげる。鳴り続ける音がターキーみたいに鼓膜を焼いて、頭がズキッとした。

「なんか、もうこの先、しんどいな」

「大丈夫ですよ、たぶん」

「なんでわかるん?」

「ずっと大丈夫じゃない保障もないじゃないですか」

「わかりにくいなぁ」

「この先、ずっと同じ毎日が続くなんてこと無いじゃないですか」

「それも、さびしいなぁ」

「むずかしいですね」

外の世界で通用しなかった人間たちが、誰にも通じない国語を使って、通用することに憧れていた。

あれらの言葉は僕たちの公用語だった。

通用しているひとたちの国の言葉よりも解像度はずっと低かったけど、でも僕たちはその曖昧さを手繰って、底の方で必死に息をしていた。

そして彼女の言っていた「この先」に来てみたけど、やっぱり同じ毎日は続かないと思う。彼女の夜も僕の夜も、誰の夜だって朝になる。

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