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ircleの新譜もらったよ

2010年。あの年の秋はずっと晴れていて、毎日が毎日の続きみたいだった。僕はQOOLANDというバンドを作って、「初ライブやるぞー」のタイミングだった。

その初舞台の共演にircle(あーくる)なるバンドがいた。

あそこでニアミスしてから、未だ関係がある。これは珍しいことだ。10年も経てばほとんどの20代は、バンドなんて辞めてしまう。

今んところモメても絶交もしていない。ていうか平たく言えば友達である。

先日、新譜をもらったのだが、じつにクールだった。「これは俺自身の歌だ」という気持ちさえ沸いてきた。僕の中の一番やっかいで、しんどくて強いものを河内の声とircleの音楽は刺激し続けている。

もちろん「共感した!」だけがすべての表現の目的地だとは思わないが、共感覚で音楽を浴びる気持ち良さは変わらず心地いい。

反対に「あ、これは俺のための音楽ではない。誰かどこか別のやつのものだ」と思うときもある。

たとえば、大貧民の敗北が耐え難い怒りに変わり、凶暴になった体を自制することができなくなり、おいしいパスタを作った人間に好意を抱く歌がある。あれには1ミリも共感できなかった。

かと言って敵意があるわけではない。「パスタ」という装置が脳のバグが引き起こすケースもあるだろう。その脳処理の変数が、愛情を呼び覚ましたということなのだと思う。

僕もircleもそうだと思うのだが、「作るひとたち」の人生は誰かの共感を呼んだり、反感を買ったりしながらすーっと伸びていく。

それなりに素晴らしいことだと思うし、恥ずかしいほどに「生き方」と呼ぶに差し支えない軸だ。

誰にも聴いてもらえなくなる日も来るのかもしれないし、もっと怖い話だが、「自分自身も何も感じなくなる日」なんてのも味わうかもしれない。

それでもこの道を一直線に歩いていくのだ。

まぁこんなふうに「表現こそが俺の人生!」なんて文章にすると潔癖にしか思えないし、極端もいいとこである。

でもこれを地でやっているひとがたまにいる。

行動のすべてがそこはかとなく「生き方」にそそがれ、代償として多くのひとが得るべくして得る人生の行程における副産物を諦めている。

そんな偏ったひとと話すと面白い。自分との違い、コントラストを見るのは好奇心の泡立ちが良い。

その行動や発言は「キチガイざた」としか例えようがないし、「あいつこんなことしてた」なんて実例をここで書くことすらできない。
それでいて、「何でこんな奇跡が起きるんだ」という「変なじけ」を呼び込む力にも果てが無い。

「ircle河内にもらった新譜が良かった!」

そういう記事を書くつもりだったのだが、着地すらできない。変な話ばかり書いてしまいそうだ。

しかし「そのひとが、そのひとらしくいてくれる」というのは野次馬からしたら嬉しいものだ。
僕は「きっちりとちゃんとマジで生きる」ということは、綺麗でも整頓されていることでもなく、自分を知っているということだと思う。

「作家の生き様」なんて創作物の後ろについてくる美しいオマケでしかないのは分かっているけれど、ircleの場合、これがまたどうしようもなく面白くて困る。

徹底して「そのひとっぽい」ならなおさらだ。創作物と切り離した時点で善悪もないし、ただ「嗚呼、河内」と笑うしかできない。

魂の色で塗りたくるから、そういう歌になるし、人格の一部を切りとっているから、そういう歌詞としてメロディに乗っかっていく。

「生き様」なんて、作品や歌唱とは何の関係もなく、残像のように残ったものでしかない。
でもこの歌の0:29を聴くと、やはり「嗚呼、河内」なのだ。



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