雨の日のアイスコーヒー
予感もあてにならない。
あの冬の日からずいぶん時間が経った気がしたけど、カレンダー上はまだ半年ほどしか過ぎていなかった。そんなに長い半年だったのだろうか。
仕事を辞めて、新しい仕事を作って、いろんなひとたちがいなくなった。それなのに変わらずに残り続けているものもある。そんな半年だった。
その日はどんよりとした天気だった。高層ビルが天空のねずみ色を貫いていた。
午後になり、僕はふらっとあの喫茶店を訪れた。
店内は、あれから時間が止まっているみたいだった。さすがにガスストーブは無い。だけど変わらないマスターに変わらないバイト。そして何よりも、入り口から一番遠い席に彼女が座って、文庫本を広げていた。
その不思議なシチュエーションがあまりにあざやかすぎて、僕はすんなりと彼女に話しかけた。
「久しぶり」
「すごい、偶然」
目を少しだけ見開いて、彼女はためらいなく本を閉じた。驚いているわりに、まるで僕が来ることが分かっていたようなスムーズな動作だった。
待ち合わせしてたみたいに、僕たちはテーブルを挟んだ。
「ここにはあれから来てた?」
「来てないわ」
「不思議だ」
「不思議ね」
「ご注文は?」
中身の無い会話をぶったぎって、ウェイターが話しかけてきた。
僕はアイスコーヒーを頼んだ。
季節にマッチしたオーダーは、かすかに自分を社会に順応させた気にしてくれた。
しばらく僕たちは無言になった。二人そろって窓の外を見ていた。
サラリーマンがイヤホンマイクで宙空に向かって喋っている。中国人もゾロゾロと行進している。午後二時前の新宿は人間だらけだった。
「ねぇ、道はどうだった?」
彼女が窓に向かって声を放った。
低くも高くもない声は、ガラスに反射して僕の鼓膜を揺らした。
僕は窓を見ながら、慎重に口を開いた。
「ずっと、東京にいた」
「どこにも行かずに?」
「うん」と僕は言った。
「辞めてから二ヶ月、なんだかようやく辞められた気がした」
「ずいぶん時間がかかったのね」
「自分でも気付かなかった。けど、最近ようやく」
店のキッチンがからんと鳴って、アイスコーヒーがやってきた。
僕はストローの袋を開けてストローを差し込んだ。
ストローは氷をかきわけて底に到達した。
「ここしばらく、本当にいろんなことが起きた」
「しばらくって?」
また慎重になった。言葉を間違えたくなかったから。今日だけは、なるべく正確でいたかった。
「十五年か十年か七年か、それとも二ヶ月なのかは俺にもわからないけど、ここしばらく」
話しながら、僕はストローの袋をくるくると巻いた。歌いながらギターを弾くみたいに、話しながら巻いた。
「でも」
「うん」
「いろんなことが起こりすぎて、起こったことが起きたんだ、って分かってしまって、自分には少し休息も必要だったんだと思う」
「すごい日本語ね」
「まだ込み入りすぎてて」
僕も彼女も口を閉じて、また窓の外に目をやる。
ここに来たときよりも、空は厚く曇ってしまっていた。そこから雲の裾とも思える柔かい雨が降り出した。
僕はむかし彼女が言っていた言葉を思い出した。
「新しい季節は、いつだって雨が連れてくるんだっけ?」
誰も気付かないぐらいの分量で彼女は笑って、口を開いた。
「それより、十五年前やこの二ヶ月にいったい何が起こったのかしら」
「たぶん、これは最大公約数的なものの言い方だけど」
そこまで言って、アイスコーヒーを口にした。自分でも歯切れが悪いのが分かった。
「きっと、出会ったひとたちに出会ったことで、俺の人生はすっかり変わってしまったんだと思う」
「どういうふうに?」
僕はまたアイスコーヒーを飲んだ。考えこんでから、「難しいんだけど」と続けた。
「自分自身と向き合ったり、打ちのめされたりした。チャレンジしないといけなかったり、恥をかかないといけなかったりもした。そういうものが埋まっている地雷原で、暮らさないといけない国に亡命したみたいに生きることになった」
「誰もがそうではなくて?」
「他人のことは分からないけど」
「そうね」
「おそらくの話だけど、ちゃんと確信したんだと思う、あくまで俺自身は」
彼女は間髪入れずにカウンターを打った。
「『もっと直面しないでもいい人生もあったのかしら』って?」
驚いた。
心の中をこれだけ正確に当てられたことにだろうか、もやもやしていたことを言葉にしてもらえたことにだろうか。
「でもね」と彼女は続けた。
「起きる前は恥をかかないように、どうせできない理由をたくさん並べていたんでしょう?」
「いや。でも…たぶん、普通、そうだ」
「それで何か失ったの?」
僕は数秒考えて口を開いた。
「結局麻薬も使わなかったし、殺しもしていない」
「よかったじゃない」
そう言って彼女は笑った。今度は湖にさざ波が広がっていくみたいな笑顔だった。
僕にもその波紋はしっかりと視えた。少し楽しくなった。声は勝手に明るくなった。
「今は歩きたかった道を歩いてる。きっと」
「お金がずっと無かった頃からなんでしょ?」
「お金が少し入ってからも、きっと。あんまり変わらない。本当はこうしたかったんだと思う。でも気が抜いたら違う場所に行ってしまう気がして怖い。まだ岐路にいる」
「お金で買えない道は続いてたんじゃない?」
「そうだと嬉しい。まだ途絶えていない、と思う」
また二人ですっかり濡れた窓を見る。
空は降ったり止んだりを繰り返す、貧乏くさい雨の降らせ方をしていた。道が泥とゴミで汚れていく。
ひとが勢いよく通るたびに、バシャバシャ音を立てて道は黒くなる。
だけどそれを見ていると、何故か心が落ち着いてきた。
目をやりながら言葉が浮かんだ。
「綺麗なシャツは、絶対ねずみ色になるしなぁ」
「うまいこと言うわね」
「傷付いた、なんて芸が無いから」
「清潔なものは長持ちしないしね」
「だからこそ大急ぎで抱きしめてきたのかも」
「そうかもね」と言った後に、彼女は続けた。
「咲かせたい花を咲かせたかっただけ、なんでしょう?」
「そう思う、前よりずっと」
僕たちはよく分からないまま、傷つきながら生きていく。
ロマンチックでも、運命的でもないまま傷ついていく。
傷も痛みも簡単に消えない。でも消えてしまう傷や乗り越えられる痛みなんて、そもそも心の傷なんて言わない。
生まれた日は全員無傷だった。人間は完璧かつ清潔に生まれてくる。だけどちゃんとダメージは溜まり、ちゃんとビンテージになる。
汚泥に道がどんどん汚くなっていく。雨はますます激しくなる。窓の外はすっかり見えない。
「次はいつ会えるのかなぁ」
水滴で塞がった窓に、僕の声は跳ね返らなかった。
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