中毒と依存症の違い

いい気持ちになった分、必ず落ち込む!

それが酒の特徴である。というよりもあらゆる薬物の特徴だ。

アッパーにせよ、ダウナーにせよ、翌朝どこかでシラフにならないといけない。質量不変の法則だ。

だんだん感覚が短くなって、量が増す。
そうなると、もう中毒になってしまう。中毒は抜けても依存症は治らない。

SUM41のデリックが重度のアルコール依存症から復活を遂げたが、あれもまた「なりを潜めている」だけなのだ。理論上、依存症の「完治」は存在しないそうだ。

あまり知られていないが、中毒と依存症は違う。

中毒は身体と対象物の関わりだが、依存症は精神と対象物の関わりになる。アル中は治っても、依存症は治らない。

僕も「ずっと飲んでいないとマズイ」というステージは抜けているけど、やはりコンビニでアルコールを買うと、もうその重さが気持ちいいのだ。
買った途端に安心する。あの首尾よく酒を入手してからの安心感は、ドーパミンが出まくっていることによるものだ。

何度も「草むす屍になるまで断つ」と独り決意し、独り破れている。勝ったり負けたりだ。酒が勝ったり、僕が勝ったりを繰り返している。

でもだからこそ病なのだろう。

もはや令和になるのに多くのひとが、依存症は病気と知りながらも、意志の問題だとか理性の問題だとかで片付けようとする。なぜか怒ってくるババアまでいる始末である。ババアという生き物は、残念ながら戦後から、さほど進化していない。依存に対して、理解が及ばないのだろう。

依存とは、ガン患者が自らの意志で、ガン細胞を始末できないのと同じだ。もしくは血圧の高いひとが、理性で血圧を下げられないのと同じなのだ。

だからこそ薬で治療する以外の手は無い。

清原和博氏の書籍に印象深い言葉がある。
あの方は、今も薬物依存、アルコール依存、うつ病と闘っている。

もう駄目だ、となる。打ちたくなるし、飲みたくなるし、死にたくなるそうだ。

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そんなときに

「じゃあ打とう」
「じゃあ飲もう」
「じゃあ死のう」

といったん、歩みよるのだ。

そこでグッと「でもあしたにしよう」と考えて、それが毎日続いていくそうだ。壮絶である。

気の持ちようにも感じるが、有効な治療法らしい。

「絶対飲んじゃいけない」と思うより、「よし飲むべ。でも明日にしよう」とすると、たしかに良さそうだ。

こんな風にツラツラと書くと、キツそうに聞こえるかもしれない。清原さんはともかく、僕自身はそうでもない。


たとえばファンのひとで、ゴリゴリの分裂病の女性がいた。

いつも頭の中で他人の声がしたそうだ。

僕に「私の家に監視カメラを付けないでください!」とメールを送りつけてきたこともある。

今生きてるのか、死んでるのか知らないが、この世に向いていないひとだったとは思う。

そんな方々からすれば、僕の苦しみなど大したことは無い。それにどんなにまともなひとでも、何かしらに依存している。

恋人に捨てられないか、会社をクビにならないか、仲間に嫌われないか、健康が失われないか、金が底をつきないかに、ビクビクしているひとも同じである。

むしろ物質的なものに依存している方が、僕はまだマシだと思う。

薬物に浸かったひとは、「自分が依存していること」を自覚しているからだ。分かっていないやつが一番怖い。様子のおかしい女とかが一番怖い。


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