「今に見ておれ」で大人になる
子どもというものは、目に見えるように大きくなっていく。親戚の子に久しぶりに会うと、すごい勢いで巨大化している。
「なぜここまで大きくなるんだい」
「ムカついているからだよ。世の中に、親に、教師に、無力な自分自身に」
などと答えそうだ。
彼らは内に抱いている「怒り」を栄養にして、骨と筋肉を伸ばしているのだ。
大人の気まぐれた理不尽にさらされ、叱られるたび、子どもは自分が子どもであることに耐えられなくなるのだ。
水中でもがいて地を蹴るように、彼らは大人へ向かって突進する。
そして「今に見ておれ」という怒りや悲しみが彼らの背骨をボキボキと鳴らし、日ごとに大きくしていくのだ。大きくならなければ、子どもは子どもの王国の中に、永久にとどまってしまう。
「自分が子どもであることの割りの悪さ」を僕がハッキリ認識したのは十歳だった。
その日は音楽の授業があり、移動教室だったのだが僕はリコーダーを自分の教室に忘れてしまった。
僕は音楽の先生に「リコーダー忘れたんで教室に取りに戻ってもいいですか」と言った。すんなりOKが出たので、僕は急いで教室に向かった。
誰もいるはずのない教室に入ると、担任がいた。
何やら作業をしているようだった。
僕がリコーダーを取りに戻ってきたことを伝えると、その瞬間担任は激昂した。
誰もいない教室でいきなり殴られた。何発もやられた。
この理由は今でもまったく分からない。
「忘れ物をした」という理由で人間を殴りまくる、なんてことは社会でまかり通る話ではない。学校という収容的な閉鎖空間だからこそ、起こりえた話だ。
その後、音楽の授業後もクラスメイト全員の前で吊るし上げられ、僕は延々と怒鳴られた。あの瞬間に僕の背は、ギギギと音を立てて3cmほど伸びたのだった。
次に背が伸びたのは十二歳のときだった。
クラスの中に多動性の生徒がいた。
何にしても集中力がなく気の散りやすいやつだったのだが、話すとやけに面白かった。
ところが当時の担任はそれを許さなかった。彼の話が飛び飛びになりすぎたストレスからかある日、担任はブチキレた。
国語の授業中に彼が「先生、前の時間の算数のことで質問があるんですけど」と聞いた瞬間だった。
担任は彼のもとに突進していき、「なぜ!なぜ!なぜ、それを今聞く!」と言って、張り手を連打した。
「なぜ!」のたびに彼はどんどん後ろに追いやられ後ずさり、教室のバックの黒板に叩きつけられた。
すると、担任は彼の頭をつかみ、「なぜだ!」と怒鳴って、黒板に叩きつけた。
それを見た教室中の生徒の背骨がミシミシと音を立てていた。
「早く、一秒でもいいから大人になりたい」という意志が教室で結晶化しそうだった。それは希望なんかじゃなく、悲願だった。
そして怒りと復讐心を栄養にして、すくすくと僕らは大きくなったのだが、大人になって愕然としたことがある。
それは大人になったからと言って、「理不尽な叱られ方をされなくなる」なんてことは無いという事実だ。
同じ背丈になって知ったが、大人は大人で日々叱り飛ばされているのだ。
あの教員共だって上から叱り飛ばされていたのだ。
その上は上で、また別の誰かに頭を打ち付けられている。
これに気付いた元・子どもの絶望は大きい。
いくら怒りを蓄えても、もう背は伸びないのだ。
たまに怒りで背骨から音がするが、それはおそらく縮んでいる音なのだ。
音楽を作って歌っています!文章も毎日書きます! サポートしてくれたら嬉しいです! がんばって生きます!