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表現は怒りでできている

落ち込むと「怒る」ひとがいる。というよりほとんどのひとは「落ち込みからの怒り」を経験したことがあると思う。ていうか「落胆」と「怒り」は誤差だ。

「激しさ」の配分量ではないだろうか。

自分が傷付けられたという防衛反応や、悪事に対する正義心により激しくなると、僕たちは怒りまくる。

その炎の火力が凄まじいほど殺傷力を増す。時折り暴力すらも巻き起こす。テロやデモにまでなる。

では「怒り」は悪なのだろうか。恩恵はないのだろうか。そんなことはない。何かしらの成果を出すためのカンフル剤になりうる。

貧乏だったカウンターから富豪へ。スラム街出身の世界チャンプ。元・伝説の不良がカリスマ教師化。

これらは擦られまくったエピソードだが、いくらかの怒りが少なからず素材となり、結果になっている。

僕はずっと音楽を書いてきたが、ここでも怒りは役に立つ。表現を仕事にする場合、「尖っていること」が必要となる。

何かを作っていると「これをやったら怒られそう」という壁に直面することがある。ここで逃げまくると面白いものは作れない。

そんなとき、『怒り』が背中を押してくれることがあるのだ。

表現を仕掛けると、悪意はなくても、誰かを傷付けてしまうケースが訪れる。
切れ味が強ければ、誰かを惨殺してしまう可能性だって孕んでしまう。もちろんその刃が誰かに勇気を与える可能性もある。その後者を目指してゼロからイチを生み出していく。

しかし毒素を減らすことに躍起になっていると本末転倒になる。清水の舞台から飛び降りず、熱い風呂に入るかの如くおそるおそる落下していては、駄作しかできないし、誰の心も動かせない。自分の作ったものにザワザワもしない。

太宰、芥川、ビートルズ、ブルーハーツ、ガウディ、ゴッホ、鳥山明。

強弱はあれど、やはり毒による面白さがある。

僕が子どもの頃、『クレヨンしんちゃん』は「見せたくないテレビ番組No.1」だった。その毒性はPTAのおばさんたちの解毒衝動を掻き立てた。

世間は清潔なものが大好きで、尖ったものを汚物として扱う。

だからこそ世間と表現はぶつかりがちだ。

そんなとき、『怒り』は役に立つ。そんな声を跳ね除けて、表現をぐいっと押し進めるパワーが生まれる。

もちろんストレスをかけてドライブしていく方法なので、健康には良くない。怒りっぽいと太りやすくもなるらしい。

大切なのはバランスだ。怒ってばかりでもマズイが、一切合切アングリーさがなくても切れ味に欠ける。

何一つ生み出さない、何一つ力を持たない、何一つ面白さがない。これもなんだかつまらないではないか。

自由気ままに生きることを貫く生き方だって最高だと思う。生きてりゃそれで良いのは間違いない。「生き方」なんて個人個人にデザインされていくものだし、比べるものでもない。

でも表現を続けるならば、「怒れない」や「怒れなくなった」というのはハンデだ。

昔はもっと怒りっぽかったのになぁと我ながら思っている。自戒である。怒りを少し足したい。落ち込めばいいのだろうか。

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