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高くて早い曲を書きなさい

大勢に向けて書いちゃいけない

音楽を作ったり、書籍を書いたりしているわけだが、一つ大切にしていることがある。「その他大勢に向かって書かない」という姿勢だ。

「その他大勢に向けて発信されたものは、どっちつかずになりやすいぜ」という意味だ。

この記事を読んでいるひとの中には、「いやいや、私は多くのひとの愛されたいんよ。どんなひとからも好かれたいんよ」というクリエイターの方もいるだろうから、絶対というわけではない。

だけど、物事は鋭くすれば細くなるし、広くすれば鈍くなる。「たった一人に書いたものが結果として、もっと多くのひとに愛される」が基本と原則のように思う。

「誰か」を抽象化する

僕もある時期からこの「独りに対して」という感度が高くなった。大勢集まっていても、感動するとき、基本人間は独りなのだ。

十万人が聴いてくれるとしても、観てくれるとしても、読んでくれるとしても、集まってくれるとしても、それはたった一人が十万人いるということになる。

次第にやることなすことを「独りのために」で考えるようになった。

それらの表現を楽しんでくれる方々はみんな独りで受けとめている。後々だれかと共有したとしても、届いて感じたときは絶対に独りだ。

しかし「たった独りに向けて発する」って簡単なようで難しい。発信先に複数の人がいることを知ってしまっているのもある。

どこかの独りに向かって孤独を投げかける

相手の顔も見えない、だけど孤独だけは共振できる一人に向かって孤独を投げるという意識がいる。このSNS全盛時代においては難しい。どうしたって複数の目が気になる。

どこにも接続されていないが、監視カメラが100個ついている風呂に入っているようなものだ。たぶん気になって仕方がない。その中でとにかく集中して入浴しなくてはいけない、この場合は自分独りのために。

小説を書いたのも大きかった。ここnoteも同様なのだけれど、この文章を複数人でワイワイ読んではいないだろう。スマホの画面でこのテキストを独りで読んでくれている。四人とかで一つの画面をのぞいていたら、ちょっと不気味だ。

「その独りのために創る」というのはとても抽象的な表現だと思う。誰か一人に対して、「これできたよ!」と曲を送る行為が具体的だとすると、抽象もいいとこだ。

具体的なことはすぐにできる。すぐに変えられるものは、それなりの耐久力にしかならない。だけど抽象的な感覚からたどり着いたものは、手間はかかるけど、壊れづらい。

「若いひとは感性豊かだ」と言うが、感性はある程度育つものだし、使わなければ衰えると思う。
衰えるとしたら、やはり具体的なものに支配された結果として、抽象的なものから遠ざかるためだろう。

高くて早い曲を書きなさい

曲を書くとき、レコード会社から「もっと高く!」「もっと早く!」と言われていたことがある。ボーカルのキーを上げて、楽曲のテンポを爆速にしろという具体的なアドバイスだ。

「多くの流行っている曲が高くて早いから。それを多くのリスナーが好むから」という理由だった。そこに「独りに向かって」というスタンスは皆無だ。僕は「貴様馬鹿か?」と言い返すことしかできなかった。
同時にそれができない自分の才能の無さに絶望したし、作った歌がその程度の魅力しか持たないことにも失望した。

具体的に言ってくれ

「具体的に言いなさい」や「もっと具体的に」という言葉が世の中には飛び交っている。

世間では具体は抽象の上位互換だと考えられているし、「分からないより分かるほうがマシ」というのが定説になっている。

「分からないままにしておく」のがガマンならない裏側には「分かってしまえば、もう考えなくて済む」という心理があるのだろう。たしかに思考停止に持っていく方が楽は楽だ。

でも、表現を仕事にしている場合、「分かるより分からない方がマシ」なときが多い。分からないものを分からないままにしておくと、延々と考えるようになる。

そして、結果「自分なりにその分からないものを創ってみよう」という動機が育まれる。『分からないけど、魂が揺れるもの』ってつまり自分にとって、心動くもの、心打ち抜かれる何かだからだ。

曖昧な方がヒントとして機能する

答えの無いものを探すとき、考えるときもあいまいなものの方が、ヒントが探しやすかったりする。

他人に助言するときも、抽象的に投げると腑に落ちてもらいやすい。そのひとが自分で考えて、自ら答えをだすようになるからだ。

そのひとなりに当てはめたり、例えたりできる余地が無限に生まれる。

反対に、具体的な助言を投げると、天井がそこで決まるし、発想が生まれづらい。

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助言を投げたひと自身が自分の具体性に捉われてしまい、頭が固くなる。

「それ以外認めないんじゃい!」という固さを持つ老害がたまにいる。具体性に捉われてしまっている。

抽象化するクセがないひとに具体的な助言を投げると、間違いなく『自分で考える』は生まれない

「言われたことをやる」が生み出せる限界はわりかし近い。

あいまいに受けて、あいまいに発する

バランスが一番大事だし、正解なんかない。

それでも言い切れないことは言い切れなくていいし、複雑なことは複雑なままでいい。

抽象化しておいたほうがいいものはそのままでいいのだ。問題のない場所にいるひとを、無理に引きずりこむ必要も無い。

具体的なひとたちの住む街に引きずり込まれたとき、苦しくてたまらなかった。独りに対して作ったものが、大勢にウケるようにリサイズされて屠殺されていくのは、たまらない痛みがある。

肺を使って生きる生き物である僕に「エラを使え!」と言っているようなものだった。

僕は溺死したまましばらく陸地に上がることができなかった。

トークショーあります

8/21(土)下北沢ヴィレッジ・ヴァンガード店内
開始時刻:17:00〜
『さよなら、バンドアパート』トークショー

【出演】
平井拓郎
カザマタカフミ
世界一アゴの長いYouTuber城之内
その飼い主ホリマ

四人でペラペラ喋ります。すごいメンツ。
二度と無い機会だと思うので来てもらえたら嬉しい。

ヴィレッジで本書を購入する必要があるなど書いている。カザマさんも書籍があるので一緒に本が売れたら嬉しい。


音楽を作って歌っています!文章も毎日書きます! サポートしてくれたら嬉しいです! がんばって生きます!