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生死

猫がいなくなった。
年齢不詳だが、サビのおばあちゃんだ。
クマという。
交通事故で足を折っていたのを保護して、そのまま我が家に居つくことになった。
10年目だ。

マンションの5階の狭い自室を隈なく探しても、見つからない。
外に出たとしか思えないが、遠くへは行っていないだろう。
マンションの全室を当たってみたが、めぼしい情報は得られなかった。

考えたくはないが、落下の可能性も無くはない。
植え込みを中心にマンションの周辺を探ったが、何も見つからなかった。

張り紙やチラシの用意はしつつ、とにかく待つしかない。
一カ月が経っても、しかし、クマは帰ってこない。

藁にも神にも縋る思いで、猫返し神社に縋ることにした。
ジャズピアノの山下洋輔さんが有名にした、霊験あらたかな神社だ。

その甲斐あってか、参拝の三日後に突然、クマが戻ってきた。
ドアの外に気配を感じて開けてみると、クマがいた。
なぜか毛が少し伸びて、ふさふさになっていた。
もっと不思議なのは、ふさふさになったしっぽが、二股に分かれていたことだ。

不思議なようで不思議でないのは、人語を喋るようになったことだ。
以前にも喋ったのだが、それはボディーランゲージとテレパシーを合わせたようなものだった。
僕の中では日本語として再生されていたのだが多分、そんな気がしただけだったのだと思う。

化け猫仕様になった今は、しかし、なんの翻訳アプリも介さずに、間違いなく人の声で、日本語を話しているのだ。
その声はおばあさんの声ではなく、少し鼻にかかってはいたが、落ち着いた30代くらいの女性の、アルトボイスだった。

「魔が差したっていうの?
ちょっとした好奇心だったのよ。
っていうか、本能と言った方がいいかしら。
夜、あなたがドアを開けた瞬間にね、つい体が動いて、すっと外に出ちゃったの。
しばらくうろうろしてたんだけど、段々パニック状態になってきて、いつの間にかマンションの外に出て、気が付いたら、車に引かれて死んじゃってた」

「じゃあ、今ここにいるクマさんは、幽霊なの?」

「まあ、そうね、化け猫よ。
ほら…」

クマは立ち上がって、自分の胸の辺りを左手で示した。
トランプくらいの白いパネルがくっついていて、手書き風の黒い字で「死」と書いてある。

クマはさらに、肉球の周りに毛の生えた左手を起用に使って、パネルをひっくり返す。
「生」と、やはり黒い手書き文字で書いてあった。

見るとクマの姿は、失踪する前の普通のサビ猫になっている。

「そのパネルって、誰でもみんな付けてるの?」

「基本的にはね。
猫も犬も人も、生きてるものは…あっ、それから、死んでるものも、みんな付けてるよ。
普段は見えないんだけどね」

「どういう時に見えるの?」

「特にこういう時ってのは無いんじゃないかな、普通は。
普通じゃない人にはいつでも見えるけれども、普通の人には見えたり見えなかったりするんじゃないかしら」

「僕はどっち?」

「多分、普通の人じゃないかな。
今見えてるのは、わたしのパワーのおかげだよ」

以来僕は、街に出ると時々、胸に白いパネルをぶら下げた人に遭遇する。
ご本人が自覚しているのかどうかわからないが、それは「生」であることもあれば、「死」であることもある。

残念ながら、しかし、自分のパネルを見たことはない。
その件に関してクマに訊ねてみたら、こういう答えだった。

「それは知らない方がいいよ、あなたの性格から言って。
あなたには世話になってるから、あなたのためを思って、自分のは見えないように、わたしがしっかりコントロールしてるんだよ」

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