見出し画像

他人とわかり合うにはどうしたらいいのかわからない(3月28日)

金融リテラシーというものをどう教育するか、というテーマのAbemaPrime。

教養を「与える」ってすごく難しいことだと思う。啓蒙というのだろうか。
興味があれば、自分でいろいろ知りたくなる。興味がなければ、知見を深めるような行動はしない。
危ないと思っていない人に危ないと伝えても、実感はわかない。
教えるということは、自然と上下の序列を与えてしまいがちだ。受け取る方の問題という言い方もあると思うけれど、もはやそれも含めて問題は複雑だ。

教養とかリテラシーというものがどういうものなのか、わからなくなってくる。

落合陽一さんがいつも「みんな違って、みんなどうでもいい」と言っている。それは僕も大変賛同できる。
いろんな形の正義や善があって当然だ。間違っているということはない。ある段階まで来ると、正しさの議論は意味がなくなってくる。
だけど、みんなが違うということを理解するにはどうしたらいいのだろうか。

僕は説明するということが大切だと思っている。
説明できないと、伝わらない。
伝わらないものは、その段階に至っていないものとして、別の伝わるものに駆逐されてしまう。
説明してくれれば、理解できるし、自分の考えをひっくり返すこともできるし、先に話が進んでいきそうだ。
そこから先は、みんな違ってみんなどうでもいい世界に向かっていけると思う。

説明して伝えることはとにかく難しい。共通のバックグラウンドや、それこそ教養やリテラシーと呼ばれるものがあれば話は早いのかもしれない。
そうなるとどこまで行っても論理が必要になってくる。論理で細かく辿っていくことは大切なことだと思う。だけど言葉にすると何かこぼれ落ちるものがあるのも事実だ。それがわかった上で仕方なく論理で伝えるしかない。とても不自由だ。

最近、パーソナリティ診断なるものをやる機会があった。

割と多くの人が、今の僕そのものだと言っていたのだけれど、結構悲しかった。
みんなのことを、世界のことを理解しあって、魂を交流させたかっただけなのに、それを分析してしまうとこの結果になってしまうのかと。多分10年前だったらこの結果にはならなかったともなんとなく思う。

別にテロリストにもサイコパスにもなりたかったわけじゃなくて、みんなと平和に楽しく、いろんなことを知りながら、幸せになりたかっただけなのに。

段々と、他者とどう関わっていったらいいかがわからなくなってくる。
否定でも破壊でも享楽のためでもなく、話がしたいだけなのに。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。