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10月10日(自分の特徴を考える)

掃除はこまめにやるのがいい。汚い空間に住んでいると、精神まで影響を受けてしまう。普段はちょこちょこできるんだけど、体調が悪くなってくると、だんだんとできなくなってしまう。掃除が億劫になってしまう。
そして汚くなった部屋にまた精神がやられて、、、という負の連鎖に突入してしまう。
ゴミの日、というのは結構大事で、「ゴミの日だから」ということを理由にあまり頭を働かせずに掃除ができる。
あまり頭を働かせずにというのが重要で、僕はもう考えだすと手が止まってしまう。
とりあえず床にクイックルワイパーをかけさえすればいいのに。

僕は家では裸足でいないと落ち着かないのだが、世の中的には靴下派やスリッパ派が多いのだろうか。
災害の時に危ないとか、冷え症だからとか、そういう方が圧倒的な気がしてしまう。
僕は裸足じゃないとというか、足の裏に床を感じて掴むことができないとどうも落ち着かない。
何度かスリッパも靴下も試したけれど、やっぱり気になって気になってしょうがない。
もし災害が起きて、裸足のせいで助からなかったとしても悔いはない。妄想としか自分の感覚が許さないのだから、自然に従って死ぬしかないと思っている。

人それぞれいろいろな感覚を持っている。ある人が何も感じないことが、ある人にとっては重要な事項だったりする。
だから集団生活というのは難しい。ある程度感覚を麻痺させられるような能力や、集団生活によって生じる様々な刺激に対して、運良く鈍感に生まれてくる必要がある。
シェアハウス時代に気がついたのは、音や光以外にことについては結構鈍感なんだなということだ。
住人の中には、共有の食器は気持ち悪くて使えないという人や、風呂場のカビが気になるとか、共用の洗濯機で下着は洗えないとか、いろいろ不都合を感じる人達がいた。
そういうものに対して、僕は特に何も感じていなかったから、シェアハウスでもなんとかうまくいっていたのだろう。

「自然とそうなっている」というものについては、僕は鈍感なのかもしれない。自然とカビも生えるし、自然と劣化していくし、まぁそれはそれで争うことはできないのだから、拒否したってしょうがない。
大して害はない(別に長時間にわたって過ごすわけでもなく、特段劣悪でもない)のだから、それはそれで受け入れていけるというスタンスだ。
音や光は、人間がわざとらしく出しているから、気になってしまう。自然さがそこにはない。

そうやって自分の特徴を考えていくのも面白いことだ。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。