見出し画像

3月8日(家に帰るまでが湯治)

温泉は定期的に行くのがいい。今まで温泉に行って、どんなに不幸があったとしても、「温泉なんか入らなきゃ良かった」なんてことは一度もなかった。温泉は無害というか中性というか、そういう自分との関係のなさが大きくてとても心が休まる。

人はいろいろなものに意味とか思いを込めてしまいがちだ。
だけど、初めて行くような温泉は、何もないし何も残らない。2度とここには来ないかもしれないし、2度と同じような気持ちにはならないかもしれない。
そういう後腐れのなさも、温泉の魅力だと思う。

文豪とか芸術家が温泉宿に篭ったりするのも、なんとなくわかる気がする。
もともと、お風呂は非日常性がある。激しい社会の中で、裸になるのはお風呂くらいのものだろう。
そこからさらに、別の場所に移動して、山道を登りながら、やっと辿り着くのが温泉だ。
距離としてはそんなに遠くなくても、その移動が必要だから、別世界に来てしまった感が増す。

別世界に来たのだからなにをしてもいい、という気分になる。
温泉に潜ってみたり、街頭のない真っ暗闇を歩いてみたり、いつもは買わないお菓子を食べてみたり、浴衣で寝てみたり。
温泉に来たからと言って、特別何かできるわけじゃないんだけど、なんとなく気分が高揚して、そういうことをしてみたくなる。

温泉に来て、いつもと変わらないことをするのもとても楽しい。
日記を書いたり、音楽を聴いたり、本を読んだり、そういういつものことを別の場所でしてみるのもいい。
スマホがあるといつでも困らないから、それはいいのかどうかわからないけど。スマホがあると何故か冷めてしまう。
スマホ以外のローテクな何かをするのがいいのかもしれない。

いつも通りに過ごしても、ちょっと変わったことをしても、温泉・旅・自然、みたいなものは全てを許してくれる。
そういう場所の情報量はとてつもなく多い。社会の中では、かなりの部分の触覚をオフにして暮らしているんだと思う。
パリパリのコンクリートに慣れてしまうと、土の感触や森の緑が鮮やかすぎて、処理しきれないような気がしてくる。

最近、地震なんかが多いけど、ここでそういうものに遭遇したらどうなるのだろうか。
温泉で気持ち良くなった浴衣のまま、生涯を終えるのもなんだか面白い。
備えも何もひとつもない。安心できるような自宅でもない。だけど、「それはそれでいいか」という気持ちが湧き上がってくる。

定期的に湯治をしていこうと思う。多分、温泉に浸ることだけが湯治じゃない。
家を出てから、帰るまでが、湯治なんだ。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。