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母の命日。

5/7は母の命日。4年前の母の日に母を火葬した。
母を亡くしてから毎年4月の下旬から5/7に向かってカウントダウンが始まる。
◯年前の今日、◯◯をしていた。そして、明日は◯◯をしていた…と、過去の記憶をひとつずつ並べ始める。

母は約4年半、己の心身と向き合った。
卵管がんだった。
都内の病院で治療と入退院を繰り返したり、地方の自然療法を試したり、なかなかいいお値段の自由診療を取り入れたり。母はあれこれ興味津々で体が動く限り自分のやりたいことを一つずつやっていった。

そんな母と暮らしつつ、母の治療を応援しつつ、私は私で自分の人生を進めなければ。
毎日必死だった。みんな必死だった。

映画のような、ドラマのような、あんな立派で情緒あふれる闘病生活ではなかった。わかりやすくみんなで協力し、家族の一大事に立ち向かい支え合うことはなく、私の家族は早々に分断されていた。“家族とは”なにか。問われたものに対して手探り状態のまま、あれこれ試してみるしかなかった。

父親は健在だが、自分にとっての手本になってくれるような父親像は我が家にはなかった。母親とは、父親とは、そんな理想を押し付けて型にはめるのはよくないとわかっていても、家族が余命宣告されたからには今からでもいいから「父親らしくしてくれよ」と淡い希望を抱いた。そんなものは無意味だった。
まだどこかで「映画のような、ドラマのような」なんて浮かれていた自分がいた。ドラマティックな悲劇が0になったどころか、徐々にマイナスの世界へ突入する。地獄だった。ささやかな幸せも勿論あったが、きっとあれは地獄だった。

永遠と母の闘病生活と父への恨みを書きたいわけではない。母の闘病生活が始まり、そこから私の人生はあちこちに散らばってしまった。
あのときはこう思っていたから辛かったな、あのときはこんな風に考えられたから頑張れたな、と綴ることで整理したい。自分に教えてあげたい。
それでも生きている私はこれからどうやって生きていこうか。相談しよう。

産後太りどころか、さらに成長してしまったボヨボヨな体。
母の死をうまく消化しきれず過食に加えてアルコールに走る日々。
喪失鬱であって欲しいと願うほどにときおり現れる無気力な私。
育児ノイローゼかな、と前向きに捉えることで頑張れる子育て。

全部全部、私。全部私がつくった私の今。
自己管理が苦手な私。
4年経ったのだから少しずつ整えられるかな。
もう4年。たった4年。
それでも頑張ってここまできた。

日々、もう少しだけでいいから笑って生きたいね。
生きようね。

たこたーこ

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