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自分らしさの檻の中でもがいているなら/平野啓一郎『私とは何かーー「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書、2012年)


 「分人」という概念を、本書で平野啓一郎が提唱している。人間は一つの一貫した存在ではなく、人や状況によって別の顔を持つ。そうした二面性や多面性は「八方美人」や、「表裏がある」というような言い方で、これまでは否定されてきた。「本当の自分」があり、「嘘の自分」「仮面を被った自分」がいる、という風に、優劣をつけられたりもしてきた。

 しかし、果たしてそういう多面性は否定すべきものなのだろうか? Aという友人と話す時と、Bという先生と話す時、Cという親と話す時ではそれぞれが違う顔を持っていて、それらはあまり混じり合わない。平野はそのことを「分人」という概念で説明しようとする。「個人」に対して「分人」。「個人」という「1」を分けて、この人と一緒にいるときの「分人」、あの人といきの一緒にいる「分人」という「分数」に分割し、そうした人の多面性を認める。

 私はこの本を読んで、なぜか平野は、この「分人」という概念を、いじめの問題から発想したのではないかという感じがした。いじめ、だけでなく、不登校も社会問題になっている。会社などの社会活動に馴染めない人もいる。でも、そうした学校や会社での自分がすべてではない。これを「個人」単位で考えると、どこか一つの局面で失敗した人は、すべてのことで失敗したことになる。でも「分人」を複数持つことができれば、それは相対化される。私たちは一つの場所や場面に縛られ過ぎている。

 これは私はどこか、サードプレイスの議論に似ているようにも感じる。サードプレイスは、人というよりもっと具体的な場のことを指す。職場や家庭などの、自分が所属する場所は複数あったほうがよい。大抵の人は、職場と家庭を持っているが、その中間に居場所があるというのが大切だというのが、第三の場所、サードプレイスということだと思う。それは居酒屋でもよいし、何か趣味の共同体が活動する場所でもよいかもしれない、教会やカフェなども例として挙げられている。

 「分人」は、「本当の自分」という存在を疑う。というか、「本当の自分」と「嘘の自分」という二項対立を疑う。今ある自分が「本当の自分」ではないという否定的な感情を疑う。私たちは常に「本当の自分を探せ」という風に強いられている。しかし、今現在を否定することはない。今いる自分も本当の自分だし、別の状況にある自分も本当の自分。だから「分人」というのは、肯定的な姿勢を呼ぶ。お前が本当に欲しいものは何だ? それがお前の生きたい人生なのか? と常に急かされる社会のなかで必要なのは、今の自分を否定して夢を抱くことではなく、今の自分を肯定しつつ、それを調整していくことだ。

 いきなり「分人」の説明から入る本書は、途中に著者自身の経験を多分に挟みつつも、意外にストイックな印象の書籍であり、とても凝縮されている。決して読みづらくはないが、この内容、書き方で、私が購入したもので「2024年5月8日26刷」となっていた。2012年の初刷刊行から12年経ち売れ続けているのがすごい。どういう人が買って読んでいるのか気になる。

 それはたぶん、この概念が単に頭でっかちなものではなく、実際の場面が想像され、想定されているからにほかならない。先ほど言った、いじめや不登校の問題、つい、今の自分を否定してしまいそうな時に、その否定から一定の距離を取ること、そのための考え方が「分人」ということなのだろう。しかも、ポストモダニズムの思想がそうであったような、「本当の自分などない」という虚無主義でもない。それを逆転させて、本当の自分が複数いることを肯定する思想だ。

 例えば何かの集団にいて、複数の人間でコミュニケーションをとるのが私は苦手だ。Aと立ち話をしていると、Bがそこに入ってくる。そうするとAと話している私と、Bと話している私がぶつかる。電話などでもそうだ。受話器の向こうの相手と話しているが、その声はこちらの空間にいる別の人々に聴こえている。そうするとどちらに照準を合わせて話していいか、わからなくなる。

 私は以前から考えていたこういう問題が、本書で言う、複数の「分人」が混ざり合う不快さの故なのだとわかった。Aと話している私は、Aに合わせた「分人」である。それをBという人間に合わせた「分人」としての私もいる。二人と同時に話すと、どちらの「分人」を出せばよいのか、わからなくなる。Aと接している「分人」とBと接している「分人」が混ざるのが恥ずかしく、気まずい。私はそれぞれに違う顔を見せていることが、どこか一貫していないようで不誠実に感じてしまう。
 
 そこで例えば、もう少し広い「分人」すなわち、AとBと話す「分人」という自分を設定できれば、複数人で話すことも少し楽になるかもしれない。それはたぶん、Aと話す「分人」とも、Bと話す「分人」とも異なるものだろう。しかし、それが異なるとしても、その一貫しなさ、一つでなさ、を否定的に捉える必要はない。

 最終的に本書は、「自分」というのは一貫したものや常に固定されたものではなく、その都度、誰かとの間でできるものだと繰り返し言う。それは、人間というのは人と人との間にしかない、という思想と似ている。だから、「自分らしさ」など環境や、接する人間によっていくらでも変わりうる。それは空虚ではなく、むしろ自分の可能性が感じられる。そういう気持ちにさせてくれるという意味で、本書は、ある種の自己啓発的に読者の生き方を変えようとする。少しでも読者を楽にしようと介入するする。少し変わった本だ。「私とは何か」というテーマで本を書くというのはなかなか普通はないだろう。だからこそ、読む価値がある。

 

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