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金平糖の中のマジョリティ

画一的な学校教育を受けさせていると、時々不安になる事があります。

「軍隊のように同じ事をみんなでやる事をよしとする教えだけど、社会に出たときは逆にそれが全く評価されなくなる。なのに、なぜこんな明治の頃の教えを続けているのか?戦争はしないと言っているけど、実は軍事国家にしたいのか?」

冗談はさておき、学校には訓示のようなものが必ずありますが、そこには、「個性を認める、育てる、尊重する」などの意味のものが含まれている事が多いです。

でもこれ、どうやって育てるのでしょう???

幼少期は、誰でも個性的です。発想も自由で発言も誰にどう思われるかなんて気にせず言いたい事を言います。時にはそれで言い合いになったり喧嘩になったりもします。

例えば、生まれた時につるんとした球体だったとしたら、幼少期はそこに凸凹とした金平糖のような出っ張りが出来てきます。この出っ張った部分が個性の原型で、その中で何か突出した「好き」ができると、そこだけが更にでっぱり、形は歪(いびつ)になってきます。

それが、喧嘩や言い合い、誰かに注意される事によって、その凹んだ部分が塗りたしされて行くのが、マジョリティの浸透フェーズ。つまり学校教育なのだと考えています。

これだけを聞くと、学校教育が個性を潰す「悪」のように感じられるかも知れませんが、実はここが個性を育てるスタートラインなのです。
集団の中の一人になる事によって、自分の「好き」や「嫌い」、「興味がある」「興味がない」、「得意」、「苦手」を集団の中で「見極める」作業をします。

問題があるとすれば、「苦手を克服させようとする教育」です。

このフェーズでは、「得意」を見つけるまで、「好き」を認識するまで、が課題なので、学校教育で「苦手克服」は実は不要なのです。

そもそも個性的な人というのは、単なる自由人でもサイコパスでもありません。彼ら彼女らが、きちんと個性を認められている、周りから受け入れられているのは、マジョリティを一旦はすくい上げ、金平糖の溝の部分に充当させているからです。そして、そのいったん受け入れたマジョリティが浸透した状態の凹凸が少なくなった金平糖に、更に、出っ張りを付け足して行く作業こそが、「個性を育てる」という工程だと思うのです。

今、これを読んで「いやいや、あの人は物心ついた時からとんがっていた。我が道を突っ走っていた」と思い浮かべるクラスメートが一人ぐらいは居るかと思います。
しかし、そんな人はほんの一握りの天才です。天才を育てている方には必要のない話ですが、私が育てているのは、平凡な小学生です。
平凡な小学生が、

「大人になるまでに、好きな事をいくつかに絞って、それらを仕事にして楽しく暮らす」

為にどんな育て方をしたら良いか?という話です。

話を戻しますが、苦手の克服は逆を意味します。出っ張りを削り落としてしまうので、全体のサイズがいつまで経ってもアップせず、幼少期サイズのままになってしまいます。

もちろん、苦手だから、嫌いだからと全く手に取らないという「食わず嫌い」はあまり良いことではありません。
そこで活きてくるのが集団学習です。
「自分は苦手だけど、あの子は何であんなに楽しそうなんだろう」

そう感じた時に「自分が苦手なコレ」ではなく、「あの子が好きなコレ」と思うと、相手の気持ちになって考えてみたり、試してみたり、ちょっと踏み込むきっかけになります。
けれど、「自分が好きなコレ」を、周りが「苦手でつまらない事」として嫌々やっているのを見たらどうでしょう?自分の好きな事にも、「あの子がつまらなそうにやっていたコレ」というフィルターがかかりませんか?すごく楽しいはずなのに、誰かが「つまらない」と言い始めると、気持ちが冷めるのは、SNSの炎上と似たような現象があります。それが、クラスで影響力のある子であれば尚更です。

マジョリティ層の無い金平糖は、みんなが共通して認識できる、例えば「甘い」とか、「酸っぱい」などの味覚が反応しない、「本人しか認識できない味覚センサー」でしか判別出来ない、大変「ひとりよがり」なものになってしまいます。
それは個性と言われるような「万人が認識できる味」では無いのです。
たくさんのマジョリティが集まって、皆が「それはマジョリティだ」という認識ができる社会でしか、マイノリティは見えてこないのです。

個性を意識する前に、マジョリティをどれだけ浸透させられるかが、フェーズ1であり、個性ばかりを育てようとしても、結局は表面積の小さい金平糖しか作れません。

個性は育てるものではなく、結果そういう個性があったに過ぎない結果論です。一旦は平滑になった金平糖から、少しずつ見えてくる出っ張りを見つけやすくする土台づくり(平滑な金平糖づくり)が学校教育であって欲しいと願っています。

そして、それを見つけて育むのは、一番身近に存在する、家族なのだと思います。

家族であれば、その金平糖が「甘い」とか「酸っぱい」とか、そんなマジョリティのフィルター越しに見る必要は無く、子供の側に立って、同じ方向を見る事が出来るのです。

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