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エリートを買収したヒトラーの金権政治『総統からの贈り物』の紹介

権力者が蓄えた富を使って仲間に忠誠を誓わせる手法は、政治の歴史において何ら目新しいものではありません。1804年にフランス皇帝に即位したナポレオン一世は、部下に忠誠を誓わせる手段として所領を与えることに注意を払いました。その供給源は武力で征服した外国の領地であり、ナポレオンにとって戦争は重要な富の源泉となっていたのです。

このような手法は非公然に行われることもあります。1830年の七月革命でオルレアン公ルイ・フィリップが樹立した七月王政は、秘密基金を設置し、国内外の支持者に資金を提供しました。その受取人の一覧は1848年の三月革命によって暴露され、著名なドイツの作家ハインリヒ・ハイネも年額4,800フランの贈与を秘密裡に受け取っていたことが判明しました。

誰から誰に富が移動しているのかを調べることは政治学の重要な課題の一つであるといえますが、調査が困難であることが多く、具体的な数値が明らかではないことがほとんどです。それにもかかわらず、ゲルト・ユーバーシェアとヴァンフリート・フォーゲルの共著『総統からの贈り物』では、ドイツのアドルフ・ヒトラーが自らの体制を維持するために、どのような金権政治の手法を駆使していたのかを明らかにしました。

Ueberschär, G. R., & W. Vogel. (1999). Dienen und Verdienen: Hitlers Geschenke an seine Eliten, Fischer Verlag, Frankfurt am Main.邦訳、守屋純訳『総統からの贈り物:ヒトラーに買収されたナチス・エリート達』錦正社、2010年

この著作が出る前からヒトラーが資金を調達した方法を解明する研究は行われており、その成果で鉄鋼トラストの会長を務めたフリッツ・テュッセンが内密に提供した資金がナチ党の重要な収入源であったことが分かっています。著者らは、テュッセンの手法がヒトラーに受け継がれていると考察しており、自分に報いた仲間の経済的な自立を促すため、国家の資産が政治的に利用されていたと論じています(邦訳、96頁)。

ヒトラーは1933年1月30日に首相に指名され、1934年8月20日に大統領の権限を継承しました。これらの権力の集中によって、ヒトラーはそれまで首相と大統領の自由裁量に委ねられていた二つの基金を手に入れました。彼は手始めにナチ党の政治活動で功績があった人物やその遺族への給付を開始し、古参の党員、熱心な反ユダヤ主義者の作家や俳優、さらに外国からヒトラーを支援していた大学教授や詩人も毎月給付を受け取ることができるようになりました(同上、44-5頁)。

政治的に注目すべきはヒトラーを首相に指名したパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の事例です。ヒンデンブルクは軍人出身の政治家であり、大規模な荘園を所有する地主でもありました。1933年にヒトラー政権が発足すると、ヒンデンブルク家に課されていた国税と地方税がすべて免除され、所有する荘園を公費で拡張することや、また国有地を贈与することが決まります(62頁)。ヒンデンブルクはヒトラーの免税措置に心からの感謝を示し、国有地も喜んで受け取りました(同上、62-4頁)。

ヒトラーがヒンデンブルクを買収した動機については、著者らは政治的な批判を逸らそうとしていたと説明しています。ヒンデンブルクに対する免税と贈与の措置が決定されたのは、ナチ党を除く他のすべての政党の活動が禁止されたときでした。1933年に最初の内閣を発足させた当初、ナチ党は国権党と連立を組んでいたのですが、ナチ党は権力を独占できる状態になります(同上、71-2頁)。この際にヒンデンブルクが敵に回ることを防ぐために、このような買収が必要とされたと考えられています。

ヒトラーはその後も数多くの個人に現金や現物の授与を行っていますが、その業務は大統領官房、内閣官房、党官房が関係していました。下賜金の取り扱いで中心的な役割を果たしていたのは内閣官房であり、そこではハンス・ハインリヒ・ラマースが実権を握っていました。ラマースはヒトラーから最も信頼された側近であり、総統秘書のマルティン・ボルマン、国防軍最高司令部総監のヴィルヘルム・カイテルと共にヒトラー政権を支える幹部でした。ラマースはヒトラーが出した要望に応じて大蔵省に連絡をとり、下賜金の免税措置を決定し、必要な金額を用意し、どのように口座に振り込むかを決定しました(同上、82-3頁)。本来、ヒトラーの財務処理は国家会計法に基づいて監査を受ける必要がありましたが、ヒトラーは1940年にこの規定を戦時に適用しないと宣言したので、事実上、無制限の支出が可能になりました(同上、84頁)。これほど強大な権力を行使できるヒトラーに逆らうことは極めて困難であったと思われます。

著者らは戦時におけるヒトラーの金権政治で軍部がどのような利益を得ていたのかについても詳細に記しています。ヒトラーはフランスを征服した後の1940年8月8日に多数の将官に手当を支給する決定を下しており、上級大将は毎月2,000マルク、元帥は毎月4,000マルクの収入が得られるようになりました。ただし、著者らが指摘しているように、その財源は裁量基金からのものであり、ヒトラーの裁量によって取り上げられる恐れがありました(同上、107頁)。

ドイツ軍の人事制度では正規の給与の規定があったのは大将までであったため、その上位に置かれた上級大将や元帥の給与に関しては恣意的な運用が行われました。エリッヒ・フォン・マンシュタインエルヴィン・ロンメルヴァルター・モーデルなど第二次世界大戦で活躍した軍人が、手当を受け取っており、所得税の申告を行う必要がないことをラマースから説明されていたと見られます(同上、109-110頁)。支払い額は戦争が終わるまで増加し、1945年4月の支払いでは元帥が92,000マルク、上級大将が68,000マルクを特別手当として受け取りました(115頁)。ちなみに、ヒトラー政権下の平均的な労働者は1週間に47時間の労働で28マルク程度の収入を得ていたようです(同上、105頁)。

訳者のあとがきによれば、当時のマルク(ライヒスマルク)は1999年のドイツマルクの10倍ほどの価値であり、マルクに対する円の相場は55円から60円ほどでした(280頁)。例えば、ハインツ・グデーリアンが上級大将として戦時中に受け取った124万マルクはおよそ6億円に相当すると推計することが可能です。これは当時のドイツで腐敗が蔓延していたことを示す逸話として理解することもできますが、ヒトラーのような独裁者であっても、自らの仲間に忠誠を誓わせるためには歳入が必要であったことを示しています。

政治学の立場から見れば、腐敗は独裁者の生存戦略そのものだといえます。政治学の選挙民理論では、政治家が政権の維持に必要な動員力を確保できるように歳出を操作すると想定されていますが、民主主義体制の下であれば政治家は公共財の供給を増やし、国民から広く支持を集めることが再選を確かなものにすると考えられています。しかし、権威主義体制の下であれば、落選する危険がないので、特定の個人、特に政権の運営に不可欠なエリートだけが利益を享受できる私的財の供給を重視するようになると考えられます。ヒトラーも落選の危険を考慮する必要がなかったために、各界のエリートを買収することは政権を維持するための合理的な選択だったのでしょう。

この研究は権威主義体制の安定性を判断する上で、政権が個人的に買収している少数のエリートに注目する必要があること、彼らの忠誠心が収入源によって変動する可能性があることを示唆しています。もし権威主義体制に対する圧力を強めるならば、その体制を支えるエリートがどのような収入を得ているのかを調査することにより、効果が高い経済制裁を設計することができるでしょう。

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