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冷戦期の米潜水艦の秘密作戦に迫った『潜水艦諜報戦』(1998)の紹介

アメリカとソ連の冷戦で潜水艦が果たした役割については、まだ多くの謎が残されています。これは潜水艦の能力や活動について秘密にすべき事項が他の艦艇に比べて多いためです。特に長期にわたって潜航し続ける能力を持ち、核攻撃能力を備えた原子力潜水艦の運用の情報は特に厳格な保全の対象となります。

しかし、冷戦時代の情報が次第に公開されるにつれて、アメリカ海軍の潜水艦がどのような作戦を遂行していたのかについては、少しずつ明らかになってきています。『潜水艦諜報戦(Blind Man's Bluff)』もその成果の一つであり、当時の関係者の証言をもとにして、アメリカ海軍が潜水艦でソ連の情報をどのように収集していたのかを記述しています。

Sherry Sontag and Christopher Drew. 1998. Blind Man's Bluff: The Untold Story of American Submarine Espionage. New York: Public Affairs.(邦訳、ソンタグ、ドルー『潜水艦諜報戦』平賀秀明訳、全2巻、新潮社、2000年

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1945年に第二次世界大戦が終わると、アメリカ軍はソ連に関する情報を収集する必要に迫られました。当時、アメリカ軍は独自の情報源をあまり多くは持っておらず、イギリス海軍の情報に依存していました。ソ連海軍が基地と艦艇とを結ぶ通信系での通話を傍受する活動や、ソ連の領空付近を航空機で飛行し、偵察する活動も行われましたが、アメリカ軍としては新たな情報源を獲得する必要がありました(邦訳、31頁)。

情報収集の手段として潜水艦の運用が本格的に始まったのは、1948年だと述べられています。当初、2隻の潜水艦をベーリング海に派遣し、無線の傍受や音紋の収集が可能かどうかを調査するところから始まりました(同上、32頁)。

アメリカ海軍は次第に活動の幅を広げ、ソ連が開発、実験している武器を探るために潜水艦を使うようになり、1949年にバラオ級潜水艦コチーノが北極海に派遣され、ソ連軍の武器実験に関する情報を収集する任務が与えられました。しかし、8月25日に艦内で火災が発生する事故があり、乗組員は救助されたものの、26日にコチーノは沈没しました(同上、65頁)。

この事故のために、コチーノの活動がソ連海軍に悟られました。ソ連は自国の領海付近でアメリカ海軍の潜水艦が怪しげな「訓練」を行っていることを非難し、外交的な問題となりました(同上)。この沈没事件についてアメリカ政府も公に認めましたが、潜水艦が何を行っていたのかについては回答を拒みました(同上、66頁)。

アメリカ海軍は、その後も潜水艦を使ってソ連の動向を探り続けました。バレンツ海の方面に1隻、太平洋の方面には最低でも2隻の潜水艦を哨戒させる態勢をとり、情報収集だけでなく、情報員や特殊作戦部隊を密かに上陸させる活動も開始しました(同上、117頁)。

ソ連海軍はアメリカ海軍の潜水艦に対する警戒態勢を強化するようになりました。その結果、日本海においてソ連の駆逐艦がアメリカの潜水艦を相手に対潜戦を行う緊迫した状況も起きました(1957年8月19日-21日、第2章)。

1955年にアメリカ海軍は原子力潜水艦を実用化させることに成功し、潜水艦発射弾道ミサイルの研究開発も進めました。それまでの核戦力の主体はアメリカ空軍の戦略爆撃機でしたが、潜水艦も核戦略の担い手として重要な地位を与えられるようになったのです。ソ連海軍も、アメリカ海軍の戦力増強に応じて、原子力潜水艦と潜水艦発射弾道ミサイルの研究開発を加速させるようになり、1960年代には潜水艦の軍拡競争が激しさを増してきました。

1960年代には、潜水艦の沈没が複数回発生しているのですが、そのたびに米ソ双方は相手よりも先に沈没した地点を特定し、技術情報を獲得しようと競争するようになりました。1968年4月11日、ソ連海軍の艦艇11隻が突如として太平洋に出撃する特異な事象が確認されましたが、これは行方不明になったソ連の潜水艦を捜索するためでした(同上、167-8頁)。

捜索対象の潜水艦はゴルフⅡ級と呼ばれていた潜水艦であり(機関は原子力ではなく、ディーゼル)、3基の弾道ミサイルを搭載していると推定されたので、アメリカ海軍はソ連より先に回収しようと計画しました(同上、170頁)。

当時、アメリカはSOSUS(Sound Surveillance System)という海底に備え付けるパッシブ・ソナーで構成された音響監視システムを配備し、大西洋と太平洋でデータを収集していたので、その情報から潜水艦が沈没した地点をいち早く推定できました。7月15日にアメリカ海軍は原子力潜水艦ハリバットを投入し、数週間にわたる捜索でソ連の潜水艦の残骸を発見しました(同上、175-6頁)。

その後もハリバットはソ連に関する情報収集で活躍しています。オホーツク海に密かに侵入し、ソ連海軍の太平洋艦隊が司令部を置くウラジオストクから、原子力潜水艦の基地があるペトロパブロフスクを結ぶ海底ケーブルの位置を特定し、それに盗聴装置を仕掛ける作戦でも成功を収めました(同上、8章)。

潜水艦で海底ケーブルに盗聴装置を仕掛ける作戦は、バレンツ海でも実行されています。1979年、第二次戦略兵器制限交渉が調印された直後に派遣された原子力潜水艦パーチーは、サンフランシスコから出航し、潜航してから北に針路をとりました。ベーリング海峡を通過したパーチーは北極海に入り、北極点を通過した後にバレンツ海に侵入しました。(同上、125頁)。バレンツ海でパーチはソ連軍の海底ケーブルを特定し、そこに盗聴装置を仕掛けて無事帰還しました(同上、下巻129頁)。

このように、アメリカ海軍の潜水艦はソ連の情報を収集する上で重大な役割を果たしました。ただし、それは大きなリスクを伴う作戦であったことも指摘されています。著者らは潜水艦の乗組員が長い航海と極度のストレスによって精神的問題を抱える事例が続出したことを記しています。例えば、1981年にパーチーが出航する直前で実施した薬物検査で乗組員の15%が陽性反応を示し、その中には3名の士官もいました(同上、下巻137頁)。

1980年代に入ると、ソ連は海底ケーブルがアメリカに盗聴されていることに感づくようになりました。この時期には、ソ連海軍が核ミサイルを搭載した潜水艦をソ連近海、例えば白海やオホーツク海に展開しつつ、北極海にも集中させる動きを見せるようになりました(同上、158頁)。核兵器を搭載したソ連潜水艦を追跡することはアメリカ海軍にとって難題でした。これは北極海では水温と塩分濃度が異なる海水が何層にも重なり、水中における音響の伝わり方が極めて特殊であること、氷塊の衝突音やアザラシ、セイウチといった海洋生物の声が絶え間ないノイズとなり、潜水艦の音だけを特定することが難しくなるためです(同上、下巻159頁)。

当時、ソ連海軍はタイフーン級原子力潜水艦を北極海に潜航させており、アメリカ本土に対する核攻撃にも使用できる態勢だったので、アメリカ海軍は抑止戦略の観点から有効な対応を考えなければなりませんでした(同上、下巻161頁)。この時期の米ソ両国の潜水艦は性能の面で拮抗するようになり、冷戦が終わるまで緊迫した状況が続いていました。

核戦略の研究では、原子力潜水艦に塔載した核ミサイルは所在を隠すことができる核戦力であるため、第一撃によって撃破されることがないと考えられていました。しかし、この著作で冷戦期の潜水艦の活動状況を知ると、原子力潜水艦が相手の第一撃を免れるかどうかは、海域の状況や相手の対潜戦の能力などによって左右される性質だと分かります。核戦略において情報戦がいかに大きな意味を持っているかについては、より深く認識されるべきでしょう。

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