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国家は本質的に軍事組織だったと論じた歴史学者ヒンツェの議論を紹介する

国家と戦争との間に密接な関係があり、両者が相互に影響を与えてきた歴史があります。この関係に着目した歴史学者オットー・ヒンツェ(1861~1940)は、あらゆる国家組織が戦争組織、つまり軍事組織として発達したと論じています。

今回は、ヒンツェが「国家組織と軍事組織(Staatsverfassung und Heeresverfassung)」(1906)と題する論文で、ヨーロッパ史における国家の発達を軍隊の発達とどのように関連付けているのかを説明してみたいと思います。そのためには、まずイギリスの著名な社会学者ハーバート・スペンサーの説に簡単に触れておく必要があります。

近代化により軍隊は社会から分離するのか?

スペンサーは社会学の分野で『総合哲学体系(A System of Synthetic Philosophy)』(1862~1869)という大著を残しているのですが、そこでは単系の社会進化を理論的に想定した上で、ヨーロッパの近代化の歴史を軍事型社会(militant type of society)から産業型社会(industrial type of society)への移行として解釈しました。この点に関するスペンサーの議論は少し入り組んでいるのですが、あらゆる社会は分業を通じて同質的な人間で構成された形態から、異質的な人間で構成される形態へと複雑化すると考えられています。

未開社会で暮らす人々は、戦士、職人、農夫など、さまざまな役割を同時に兼ねて暮らしているため各人の同質性が維持されていますが、次第に近代化で分業が進むとそれぞれ異質な技能を持つ人々で構成される社会へ変化していきます。このため、誰もが戦士としての役割を果たすために指導者の権威に従わなければならない軍事型社会は衰退し、産業型社会の中で異なる生産活動に従事する人々が市場を通じて財やサービスを自由にやり取り産業型社会に移行するのだと考えられています。

ヒンツェはこのようなスペンサーの見方は一面的であると考えました。スペンサーの説は、商業活動が軍事活動に対して優位に立っているイギリスやアメリカのような国の近代化を説明する際に当てはまりますが、フランスやドイツなどの国で徴兵制の下に、多くの成人男性が兵役につくようになった状況を説明できません。

近代化で軍隊はますます社会と一体化しつつある

そもそも、あらゆる国家はもともと戦争のための組織として発達したと見なし、国家権力はあらゆる軍事作戦に必要とされる国内統制の機能として発生したとヒンツェは想定します。確かにヨーロッパ史においては軍人と生産者が身分として明確に分離されていた時代が長く続いていました。中世ヨーロッパの封建制では、軍人が世襲される身分となっており、それは特権的な階級として農民、職人、商人などとは区別されました。

しかし、十字軍の時代に入ると軍役に対する給与の支払いが始まっており、次第にこれが制度として定着するにつれて、傭兵が出現するようになります。このことは15世紀までにヨーロッパの各地で私兵集団が形成される要因を作り、封建制の安定を揺るがしたとヒンツェは説明しています。

特に注目すべきはは、16世紀にフィレンツェで行政官のニッコロ・マキアヴェッリが国防を傭兵に依頼する自国の政策を批判し、民兵を創設することを大胆に主張したことです。これはスペンサーが社会進化として想定した分業化に逆行する主張でした。

もちろん、マキアヴェッリの提案が直ちに受け入れられたわけではありません。16世紀から17世紀にかけてヨーロッパの各地の戦争で傭兵は活躍し続けました。しかし、戦争が続くにつれて列強は傭兵を戦時にのみ雇用する体制は見直されるようになり、彼らを常備軍として国家機構の内部に取り込む動きが着実に進みました。ヒンツェは、この際に海に囲まれるイギリスが戦争の危険に直接的に晒されていないために常備軍を発展させなかったものの、フランス、プロイセンをはじめとするヨーロッパ大陸の国では早くから常備軍の成長が始まったことを指摘しています。

常備軍が創設されたかどうかは、その後の社会の在り方を大きく左右しました。ヨーロッパ大陸で貴族の身分を維持してきた人々は、この常備軍の将校団として自らを再定義し、社会的な生き残りを図りましたが、18世紀末にフランス革命戦争が、19世紀の初頭にナポレオン戦争が勃発すると、彼らの立場は危機に瀕しました。ヒンツェは、封建的特権が廃止されたフランスで国民全体を徴兵する制度が導入されたことがどれほど画期的なものであったのかを強調しています。これらの戦争を通じて多くの平民が兵役を経験するようになり、特にフランスでは将校団に多くの優秀な平民が加わりました。ヒンツェはこれを「すべての男子が戦士であった原始的状態への回帰」として捉えており、近代化の歴史が必ずしも軍事型社会からの離脱に至るとは限らないことを論じています。

ただ、19世紀に兵役義務がすべての成人男子に課せられるようになったことによって、民衆が政治に参加する道として、普通選挙制が導入されやすくなったともヒンツェは主張しているので、近代化の過程における兵役義務の普及が単なる未開状態への復帰とは性質が違うことは明確に認識されています。兵役の義務を履行するようになった民衆が投票の権利を獲得することは歴史的に何度も繰り返されてきたとヒンツェは述べており、徴兵制と民主化との間に一定の因果的な関係があるのではないかと推定しています。

そうだとすれば、君主や貴族は平民から自らの権力を守るために、徴兵制を思いとどまるはずだと思われます。この点についてヒンツェは対外的な脅威に対処するために徴兵制から逃れることがしばしば難しかったのだと説明しています。

例えば、19世紀にロシア政府が徴兵制を導入せざるを得なかったのは、すでに先行して徴兵制を採用していたプロイセンの軍事的脅威に対応する必要があったためであり、その意味で国際政治の要因が国内政治上の決定を規定したと考えられています。

しかし、イギリスやアメリカのように大規模な陸軍を必要とはしない海洋国家ではまったく違った軍事制度が形成されていました。というのも、これらの国々では常備軍、徴兵制に非常に慎重な政策が維持されていたためです。それは国防に大規模な兵力を必要としない特殊な地理的環境によるものではないかとヒンツェは考えています。スペンサーがイギリス人の立場で近代化により産業型社会が必然的に到来すると判断した際に、この点は十分に考慮されていませんでした。

まとめ

ヒンツェは当時の軍事史の研究成果を駆使することによって、スペンサーの近代社会に対する見方に偏りがあることを批判するだけでなく、軍事制度がもたらす歴史的影響をさまざまな角度から検討しました。

一般徴兵制の導入が近代社会に与えた影響については、最近の研究でより詳細に議論されているところですが、ヒンツェは身分制社会から民主的社会への移行を促す要因として位置づけており、それが国家形態にも影響を与えることを視野に入れるべきだと主張しています。

今日の研究者にとってさほど目新しい議論というわけでもないのですが、戦争と軍隊の歴史を考える上で、社会全般の歴史を認識する意義を認識する上で重要な成果だと思います。

参考文献

Hintze, Otto, 1975(1902). Military Organization and the Organization of the State, in Gilbert, Felix, ed. The Historical Essays of Otto Hintze, New York: Oxford University Press, pp. 178-215.



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