ある少女の戦争日記『ターニャの日記』(1942)
『ターニャの日記』
1941年12月28日午前12時、ジェーニャが死んだ。
1942年1月25日午後3時、おばあちゃんが死んだ。
1942年3月17日午後5時、リョーカが死んだ。
1942年4月13日午前2時、ワーシャおじさんが死んだ。
1942年5月10日午後4時、リョーシャおじさん。
1942年5月13日午前7時30分、お母さん。
サーヴィチェフ家は死んだ。
みんな死んだ。
残ったのはターニャだけ。
解説
『ホロコーストの中の子どもたち(Children During the Holocaust)』(2011)という著作があります。この著作は1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を掌握してから、1939年に第二次世界大戦の勃発を経て、1945年に終戦を迎えるまでの間に、ユダヤ人の児童、青年がどのように追放されたのか、どのように収容されていたのか、どのように命を落としていたのか、どのように生き残ったのかを数多くの史料を駆使して記述しています。また、ユダヤ人ではない児童、青年が被害者として、あるいは加害者として、どのように戦争と暴力の時代を生きていたのかを知る上でも貴重な研究資料を収録しています。『ターニャの日記』は54頁に収録されています。
著作によると、作者のターニャ・サーヴィチェフは1930年に生まれ、6歳で父を亡くし、母のマリーヤ、兄弟のミハイル、リョーカ、姉妹のジェーニャ、ニーナと一緒に暮らしていました。家はソビエト連邦のレニングラード(現在のロシア連邦のサンクトペテルブルク)にあったため、1941年にソ連に侵攻したドイツが9月にレニングラードに到達すると、ターニャの生活は一変しました。家族は戦争に駆り出され、防空警戒、陣地構築、工場勤務に従事しました。当時、11歳の少女だったターニャも塹壕の構築に従事したようです。1941年の秋にドイツ軍がレニングラードを完全に攻囲するとき、姉のニーナは偶然にも市外に避難することができました。このことは家族に伝わらなかったため、家族はニーナが亡くなったと信じ、家に残された遺品の一つだった日記はターニャのものになりました。
ターニャの日記は1941年12月28日に妹のジェーニャが栄養失調で死亡したときから始まっています。ドイツ軍の攻囲下にあったレニングラードでは食料が著しく欠乏し、多数の市民が餓死していきました。餓死者が増加するにつれて、市内は遺体があちこちに転がるようになりました。埋葬が追い付かないほどの遺体が腐乱し始め、一部の市民は食人を始めました。ターニャはこのような状況下のレニングラードで自分の家族が次々と命を落としていく様子を淡々と記録しました。1942年5月13日、ターニャは母の最期をみとると、自分が家族の最後の生き残りになったことを書き残しました。この年、ソ連軍はドイツ軍に対して数度にわたる攻勢作戦を実施していますが、レニングラードの攻囲を解くには至らず、ターニャは市内で12歳の誕生日を迎えています。
ソ連軍は1943年1月12日に大規模な攻撃を実施し、ようやくドイツ軍の攻囲を解くことに成功しました。1月17日にレニングラードの解放が宣言されましたが、戦場では依然として激しい戦闘が続いており、安全は確保されておらず、外部から支援が入るまでには、さらに時間が必要な軍事情勢でした。ターニャは1943年8月にアパートの一室で栄養失調のために衰弱していたところを救助されました。レニングラードから少し離れた孤児院に収容され、医師の治療を受けました。しかし、慢性の赤痢のためにひどく衰弱していたターニャは1944年7月1日に病院で亡くなっています。家族に死亡したと誤解されていた姉ニーナは、1945年まで生き残り、レニングラードの自宅に帰ることができました。そこで彼女はターニャが書き残した日記を発見しました。
現在、ターニャの日記は『アンネの日記』と並ぶ戦時下の日記文学の作品として知られており、戦争の悲惨さをこれ以上ない簡潔さと明瞭さで私たちに伝えています。